新潟の丸山さんから、『城の崎にて』に関する質問がコメント欄に寄せられましたが、
重要な問題だと思いますので、ここで取り上げます。
『城の崎にて』葉っぱのヒラヒラについて (丸山義昭)
ここ何週間も先生の『近代小説の一極北ーー志賀直哉『城の崎にて』の深層批評』を繰り返し読んでいます。この一週間は「一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ」の場面についての御論の箇所を繰り返し読みました。この場面は、「そんなことがあって、またしばらくして」とありますから、確かに、これは鼠の動騒の場面と深い関わりがあると読めます。鼠の動騒から「自分」は、自分にも死の恐怖が自分の識閾下にあったことを自覚します。そして、それは「仕方のないこと」と受け入れています。それで、葉っぱのヒラヒラの場面の最初で、「もの静かさがかえってなんとなく自分をそわそわとさせた」とあるのは、自分のそういう識閾下イコール死の恐怖があったことに気がついたから、と読めます。
次の、「原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」とあるのは、このように一見「不思議で」「多少怖い気」もするようなことが起こる場合を既に知っていたと思ったということで、自分の識閾下に気がつき、既にそうした事態を受け入れていたことにあらためて気づく、というこの「自分」という人の認識パターンを、この葉っぱのエピソードが示しているーーという理解で宜しいでしょうか。
これに対する私の回答が以下の通りです。
丸山さんへ (実)
ご質問ありがとうございます。『城の崎にて』で、魚串の刺さった鼠が全力を尽くして逃げ回っている箇所の問題、丸山さんはその鼠の動騒を契機に自分にも死の意識が識閾下にあったことを自覚したとお読みになっています。これを自明の前提にしておられますが、私はそうは読んでいません。「死後の静寂に親しみを持つ」のですが、その死が来る前にあの動騒があることが恐ろしいと感じているのであり、死に対する親しみが消えてなくなっているわけではありません。この恐ろしさこそ受け入れなければならないと「自分」は思っています。何故ならあの鼠のあがき、動騒はそう努力することが生き物として当たり前のこと、生き物が生きようとする必然の動きだからです。
ヒラヒラと風のないのに目の前で一枚だけ動く葉の問題は、「不思議」で「コワイ」と思うのですが、「自分」は「暫く」これを見ています。そのうちに風が吹いて葉は動くのやめます。「原因」はそう難しいことではありません。理由は以前にすでにこうした一枚の木の葉の眼に見えないかすかな風の力の関係、その相関関係の動きを知っていたと感じることで、「自分」は深く、静かに識閾下に降りて行っています。死に対する親しみ、死を受け入れていく気持ちでもあります。
重要な問題だと思いますので、ここで取り上げます。
『城の崎にて』葉っぱのヒラヒラについて (丸山義昭)
ここ何週間も先生の『近代小説の一極北ーー志賀直哉『城の崎にて』の深層批評』を繰り返し読んでいます。この一週間は「一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ」の場面についての御論の箇所を繰り返し読みました。この場面は、「そんなことがあって、またしばらくして」とありますから、確かに、これは鼠の動騒の場面と深い関わりがあると読めます。鼠の動騒から「自分」は、自分にも死の恐怖が自分の識閾下にあったことを自覚します。そして、それは「仕方のないこと」と受け入れています。それで、葉っぱのヒラヒラの場面の最初で、「もの静かさがかえってなんとなく自分をそわそわとさせた」とあるのは、自分のそういう識閾下イコール死の恐怖があったことに気がついたから、と読めます。
次の、「原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」とあるのは、このように一見「不思議で」「多少怖い気」もするようなことが起こる場合を既に知っていたと思ったということで、自分の識閾下に気がつき、既にそうした事態を受け入れていたことにあらためて気づく、というこの「自分」という人の認識パターンを、この葉っぱのエピソードが示しているーーという理解で宜しいでしょうか。
これに対する私の回答が以下の通りです。
丸山さんへ (実)
ご質問ありがとうございます。『城の崎にて』で、魚串の刺さった鼠が全力を尽くして逃げ回っている箇所の問題、丸山さんはその鼠の動騒を契機に自分にも死の意識が識閾下にあったことを自覚したとお読みになっています。これを自明の前提にしておられますが、私はそうは読んでいません。「死後の静寂に親しみを持つ」のですが、その死が来る前にあの動騒があることが恐ろしいと感じているのであり、死に対する親しみが消えてなくなっているわけではありません。この恐ろしさこそ受け入れなければならないと「自分」は思っています。何故ならあの鼠のあがき、動騒はそう努力することが生き物として当たり前のこと、生き物が生きようとする必然の動きだからです。
ヒラヒラと風のないのに目の前で一枚だけ動く葉の問題は、「不思議」で「コワイ」と思うのですが、「自分」は「暫く」これを見ています。そのうちに風が吹いて葉は動くのやめます。「原因」はそう難しいことではありません。理由は以前にすでにこうした一枚の木の葉の眼に見えないかすかな風の力の関係、その相関関係の動きを知っていたと感じることで、「自分」は深く、静かに識閾下に降りて行っています。死に対する親しみ、死を受け入れていく気持ちでもあります。
今朝、鷗外の『鶏』論を書き終わり、志賀直哉の小説と鷗外のそれが通底していることに改めて、驚愕・感銘しています。『城の崎にて』と『鶏』が通底しているなど、思ったことがなかった、これを今、鷗外記念館ニュースに送りました。12月にこれが発行されます。
そこでお二人、『城の崎にて』の問題、鼠の動騒に関することはもう問題ないですね。桑の葉のひらひらはイモリの偶然の死のレベルでは考えられません。識閾下を意識すること、そうしたことを体験していた、見知っていた、これを感じた、我々の意識領域が識閾下に支えられてある状態を今、自覚してのことです。
お二人とも、適切的確に読み取られていると思います。
こうした読み方が、現在の近代文学研究にも浸透していくと、文学の意味・近代小説に関する対応が全く変わります。現在の日本の文学研究・国語教育研究はオリジナルセンテンス=原文とパーソナルセンテンス=本文という概念もありませんから。学会に学問の基本が欠如していると私は考えています。
お世話になっております。佐藤和也です。
「城の崎にて」における「鼠の動騒」と「桑の葉」について、先生のご返答を踏まえてコメントさせていただきます。
城崎温泉滞在時の〈自分〉の省察は「范の犯罪」で語られたこと、つまり妻を殺しておきながら快活であることを認める〈范〉を無罪にする〈裁判官〉のパースペクティブに通底しているように思われます。
「范の犯罪」の作品世界を〈裁判官〉を通じて語る「語り手」は生と死を等価とする「語り手」ですが、その「范の犯罪」の作者が「城の崎にて」の〈自分〉であることがポイントであると考えます。
言い換えれば生と死を等価とする世界観認識を既に識閾下で抱え込んでいる〈自分〉を通して「鼠」も「桑の葉」も語られているということではないでしょうか。だからそのいずれの出来事をも受け入れることができているのではないかと思います。
葉っぱのヒラヒラについては、どうしても先行研究も、指導書の類も、その後のイモリの死と結びつけて、偶然に支配される現象と読む傾向が強いようです。ここでは識閾下に降りていく「自分」のあり方を読んで、そうしたあり方と、死に対して親しみを持つこと、死を受け入れるというあり方が不可分というふうにおさえるべき、ということで理解して宜しいのでしょうか。小説全体の中での、この葉っぱのエピソードの位置づけが難しいと感じる教師が(私も含めて)多いようです。