友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

詩人ロートレアモン

2007年02月25日 19時07分57秒 | Weblog
 友人のブログを読んでいたら、彼が高校時代、同じ文学好きの友だちとは「ともにフランスの詩人ロート・レアモンの詩の愛好家でもあった」と書いていた。彼のことは何でも知っているつもりでいたが、全く知らなかった。人は人をすべて、何もかも知っているなどということはありえない。最も身近かにいる夫婦や親子でも同じだろう。実は自分自身についても、何もかも覚えている、理解できている、とわけでもないような気がする。

 ここまで書いてきて、人の理解のことに話を進めるか、彼の書いた「ロート・レアモン」について書くべきか迷った。しかし、「ロート・レアモン」とあるのが、「ロートレアモン」と書くべきではないのかと書きたくなった。シュールリアリズムに魅せられた私としては、『マルドロールの歌』の著者であるロートレアモンは無視できない存在である。彼の本名はイジドール・リュシアン・デュカス。1847年に南米のモンテビデオで生まれ、14歳の時に植民地官吏の子弟がそうであったように本国フランスの中学校に入学した。それから10年後の1870年、パリの貧しい下宿屋で原因不明で死亡しているが、この間の記録は何も無いという。

 シュールリアリストたちは、ランボーとともにロートレアモンを自らのパイロットと仰いだが、その理由は次の詞にある。『マルドロールの歌』の第6の歌にある「そしてなによりも、ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」を絶賛した。この詩の詞の前には「真面目な容貌の知的な能力を評価することが問題なら、もはや日月の総量などは問題にならない。ぼくは額の人相学的線の中に年齢をよみとることには精しいのだが、彼は17歳と4ヶ月だ!彼は肉食猛禽の爪の牽縮性のように美しい、あるいはさらに、後頭部の柔らかな傷口が定かならぬ筋肉運動のように、あるいはむしろ、その永久の鼠取り機、動物が捕らえられる度毎にいつでも仕掛け直され、一台で無数の齧歯類の動物を捕らえることができる、藁の下にかくれていても機能を発揮することができるあの機械のように、」(栗田勇訳)とある。つまり、一人の青年を形容する詞なのだ。

 このように思いつくままに言葉を書き続ける方法を、シュールリアリストたちは自動記述法と称して、詩でも絵画でも用いた。既成の概念や価値から自己を解放するシュールリアリズムにとっては、無軌道で反権力的で謎めいたロートレアモン、ランボーもそうだが、正しく師でありパイロットにふさわしかった。ロートレアモンとランボーが彼らよりも先を生きたボードレールの詩集『悪の華』を読んでいたと想像するのは間違いではないと思う。時代はハッキリと近代へと移っていた。自分は何か、人間は何か、人間が作り上げている社会は何か、問わずにはいられない人が生まれてきたのだ。

 ロートレアモンの『マルドロールの歌』をバイブルとしたシュールリアリズム運動が盛んになったのは第一次世界大戦後であり、ロシア革命後である。ロートレアモンが日本で紹介されたのは現代思潮社から栗田勇訳の『マルドロールの歌』ではなかったかと思う。この本を私は今も持っているが、初版の発行は1960年だから高校1年の友人が手に入れて読んでいたのかも知れない。そういえば、大学生になった時、「強姦の思想」などということを真面目に論議したことがあった。要するに、アメリカもソ連も相手のことなどかまわない「強姦の思想」ではないか。無理やりやっておいて正義とは言語道断だ。しかし、相手の気持ちなど考えずにできる男はうらやましいなど、訳のわからない論議だった。
コメント
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