昨夜、名演で「オセロ」を見ました。
男たちの野心と嫉妬は誠に罪作りです。男たちは自分の出世を望みます。そのくせ男たちは出世した男に嫉妬します。女は男を心から愛しているのに、男は女が他の男に情をかけていると聞いただけで嫉妬してしまいます。男の独占欲は誠に勝手なもので、女は自分だけのためにあると決め付けているのです。女はまだ若く純情で、愛する人はただ一人だけです。しかし、男は年老いていますから、自分がそうであったように、ひとりの人しか愛せないことを信じません。人の心は移ろいやすいものです。そうではあっても、愛していることは真実で紛れもない事実なのですが、なかなか理解しようとしないのが人間です。
オセロは愚かな人間です。本当に人の上に立つ人間ならば、あのような間違いを犯すことはありません。私の友人が、「いざこざがあった時、一方だけの言い分を聞いてはいけない。一方の言い分を聞いたら、相手の言い分も聞くことです」と、私に教えてくれました。彼女は大手の広告代理店の管理職にあったので、きっと自分の経験から、片方だけの言い分を鵜呑みにすることの怖さを知っていたのだと思います。私も新聞を作る人間として、彼女の忠告を黄金律のように守ってきました。記事はどんなに客観的に書いたとしても、主観的なものです。当たり前です。記者の主観があり、新聞社の主観があります。しかし、取材は片方だけでなく多様でなくてはならないと思います。
オセロは立派な将軍とベニスの人々に尊敬されていたようですが、片方だけの言い分を聞いて判断したのでは、下の者を苦しめることになります。オセロが本当に上に立つにふさわしい人間ならば、何が正しいのかと悩んだ時はどう解決をするべきか、判断できたと思います。それができなかったところに、オセロの悲劇があります。オセロは「愛するがために、その愛の深さがゆえに、過ちを犯した」と最後に言います。本当に愛していたのなら、殺したりしないのではないかと私は思います。芝居だから客観的に見られますが、現実の生活の中ではやはりオセロのように妄想に取り付かれてしまうのが普通の人間なのでしょう。そのことの怖さをまず知ることだと思いました。
オセロを陥れるイアーゴーはどういう人間なのでしょう。考えてみれば、ほとんどの男はイアーゴーみたいな者です。人をねたみ、自分のことしか考えられず、挙句の果てにとんだ思い違いをしてしまいます。力が無いのは自分です。それなのに、とにかく悪いのは相手であり、社会であり、運命でありというわけです。自分のことは棚上げにしてしまう人ほど自分の力の無さに気付きません。力が無いことは悪いことではありません。力がなければ力をつければよいのです。しかし、人にはそれぞれ限界があります。それがわかれば、そのように生きればよいのです。気楽に楽しくやればよいのです。
それが分かるまで、人は悶々と生き続けるのでしょう。オセロは自分の過ちに気付き、自害します。そうして欲しいし、そうすべきだと思いました。罪の無い人を苦しめ死に至らしめたのですから、当然その責を負うべきです。私は、自分がこの世に生を受けた意味をいつ知ることができるのか、楽しみに生きています。
男たちの野心と嫉妬は誠に罪作りです。男たちは自分の出世を望みます。そのくせ男たちは出世した男に嫉妬します。女は男を心から愛しているのに、男は女が他の男に情をかけていると聞いただけで嫉妬してしまいます。男の独占欲は誠に勝手なもので、女は自分だけのためにあると決め付けているのです。女はまだ若く純情で、愛する人はただ一人だけです。しかし、男は年老いていますから、自分がそうであったように、ひとりの人しか愛せないことを信じません。人の心は移ろいやすいものです。そうではあっても、愛していることは真実で紛れもない事実なのですが、なかなか理解しようとしないのが人間です。
オセロは愚かな人間です。本当に人の上に立つ人間ならば、あのような間違いを犯すことはありません。私の友人が、「いざこざがあった時、一方だけの言い分を聞いてはいけない。一方の言い分を聞いたら、相手の言い分も聞くことです」と、私に教えてくれました。彼女は大手の広告代理店の管理職にあったので、きっと自分の経験から、片方だけの言い分を鵜呑みにすることの怖さを知っていたのだと思います。私も新聞を作る人間として、彼女の忠告を黄金律のように守ってきました。記事はどんなに客観的に書いたとしても、主観的なものです。当たり前です。記者の主観があり、新聞社の主観があります。しかし、取材は片方だけでなく多様でなくてはならないと思います。
オセロは立派な将軍とベニスの人々に尊敬されていたようですが、片方だけの言い分を聞いて判断したのでは、下の者を苦しめることになります。オセロが本当に上に立つにふさわしい人間ならば、何が正しいのかと悩んだ時はどう解決をするべきか、判断できたと思います。それができなかったところに、オセロの悲劇があります。オセロは「愛するがために、その愛の深さがゆえに、過ちを犯した」と最後に言います。本当に愛していたのなら、殺したりしないのではないかと私は思います。芝居だから客観的に見られますが、現実の生活の中ではやはりオセロのように妄想に取り付かれてしまうのが普通の人間なのでしょう。そのことの怖さをまず知ることだと思いました。
オセロを陥れるイアーゴーはどういう人間なのでしょう。考えてみれば、ほとんどの男はイアーゴーみたいな者です。人をねたみ、自分のことしか考えられず、挙句の果てにとんだ思い違いをしてしまいます。力が無いのは自分です。それなのに、とにかく悪いのは相手であり、社会であり、運命でありというわけです。自分のことは棚上げにしてしまう人ほど自分の力の無さに気付きません。力が無いことは悪いことではありません。力がなければ力をつければよいのです。しかし、人にはそれぞれ限界があります。それがわかれば、そのように生きればよいのです。気楽に楽しくやればよいのです。
それが分かるまで、人は悶々と生き続けるのでしょう。オセロは自分の過ちに気付き、自害します。そうして欲しいし、そうすべきだと思いました。罪の無い人を苦しめ死に至らしめたのですから、当然その責を負うべきです。私は、自分がこの世に生を受けた意味をいつ知ることができるのか、楽しみに生きています。