友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

63歳の結婚

2008年02月16日 21時46分56秒 | Weblog
 私の友人がこの春に結婚することになった。同じ歳だから63歳である。彼女は初婚だ。相手は中学時代の同級生という。彼の方は5年前にカミさんを亡くし、今はボランティア活動に励んでいる。たまたまクラス会があり、その後、二人は急接近してしまった。わずか2ヶ月に満たないくらいのうちに、結婚が決まり、旅行に出かけ、そして彼は彼女の家の方々に挨拶するとともに、これから一緒に住む彼女のご近所にも挨拶に回ったそうだ。

 既に半分同棲しているようなものだから、結婚式のような形式は省くのかと思ったが、披露宴は行うというので、それならば人前結婚というものなのかなと思っている。その話を聞いた長女は「ひやー素敵じゃーない」と大喜びだ。メールの交換や交換したメールを友だちに見せたり、彼のためにセーターを編んだり、きっと今年のバレンタインは思い出深いものであったに違いない。「もう高校生と一緒ね」と長女ははしゃぐ。

 恋愛に年齢は関係ないなと思う。「樹氷を見に蔵王へ行こう」は高校生ではできないことだ。年齢を重ね、しかもお金があるからこそ、出来なかった「恋愛ごっこ」ができる。そっと手をつないだり、こそっとキスしたり、彼のためにリンゴをむき、「はい、アーン」なんて口に運んだりしているのだろう。たとえば、車の中でポットに入れてきたコーヒーを飲みながら、幸せなひと時を味わっているのかも知れない。

 今朝の中日春秋は「およそ会話というものは、突き詰めると自分を語り合うことであろう」と、述べていた。男でも女でも一生懸命で相手に伝えたいのは「自分」だと思う。自分を理解して欲しいのは、当然理解なしに相手を受け入れないからだ。人はみな愛して欲しいと思っている。また愛するためにはますます相手を知りたくなる。昨日、電車の中で女子高生が持っていた紙袋の英文を思い出す。「I want to understand you. Please be together all the time. 」

 結婚する友人もいれば、「まるで高校生のよう」に悩んでいる友だちもいる。彼は「男とは悲しい生き物だ。自分中心にしか、物事を考えられない。自分が悩んでいる分だけ、相手も悩んでいると思い込んでしまう。愛情の度合いに差があり、これから生きるスパンがそれぞれ違っていれば、当然、今までの愛憎に対する固執差が出てきて当然である。男はその辺のデリケートな部分を積極的に理解しようとしない情けない動物である。(略)一般論だが、女は過去を消したがり、男は過去に縋りたがる。(略)女はいろんな生き方が可能だが、男は一つの生き方に固執しすぎる性向がある」と、女性との中途半端な関係を嘆いている。

 彼には妻子があるが、彼はその付き合っていた(過去形である)女性を「最愛の人」とブログに書いている。それでいて「友だち以上恋人未満」の関係だから、プラトニックな「愛」だと言う。私にはそれが理解できないけれど、人はそれぞれにいろんな形で「愛」を探しているのだから、それはそれとして私が口を挟むようなことではない。みんなが幸せになってくれればそれでいい。
コメント
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