昨日のブログを見ると、なんだか今にもこの世におさらばするような内容になっている。残念ながら今朝は元気に目が覚めた。朝5時から、隣の小学校の運動場で800メートル走のために練習すると孫娘が言っていたことを思い出し、ベランダから眺めてみた。6時を回っていたからか、もう運動場にその姿は無かったし、よく見ると人が走り回った痕跡も無い。
部屋に戻り、新聞を読む。それからルーフガーデンに出て、咲き終わった朝顔の花を摘み、痛んだ葉を取り除いていやる。朝は清々しいが、少し動くともう汗が流れ出してくる。摘み取った花柄や痛んだ葉を箒で集め、庭がきれいになると私の気分も満たされてくる。そうだ、こんな風に幸せだからこそ、幸せだということが先行してあんな文章になってしまったのだ。私に幸せをくれた人たちへの感謝の気持ちが先走ってしまったと思う。
昨夜は、夜の9時からNHKテレビ「金とく・和太鼓集団TAO」を見ていた。何年か前に小牧市民会館でこの集団の和太鼓演奏を見たことがある。昨夜の演奏はその時とは格段の差があると言ってよいほど見事だった。もちろん、以前見た時もすごいなとは思ったけれど、わが町の私の友人が主宰する和太鼓集団の演奏の方が私には気持ちよかった。わが町の和太鼓集団の演奏は技術的にはまだまだ幼かったけれど、演奏にはストリー性がありだからこそ芸術性に溢れていたと思う。
和太鼓集団TAOはエンターテイメントに徹していた。よくできるねと思えるアクロバットのような演奏は確かに目を見張らせるものがある。集団での演出・振り付けあるいは衣装も工夫に富んでいた。人の限界に挑戦するようなところは「競技」であり「芸術」でもある。オーケストラの演奏と違うのは、リズムしかないということだろう。韓国の太鼓、あるいはたしかタイでも聴いたような、そしてまたアフリカそれともスラブいやアマゾン、ジャズや南米音楽、東洋の太古の音、そんな世界の太鼓の音を取り入れている。
和太鼓集団TAOは愛知県で生まれたのだそうだ。初めの練習場所は小牧市だったそうだから、私が聞いたのはそんな時だったのかもしれない。今は海外での演奏活動が多いそうだが、その原動力となっている練習風景も紹介されていた。九州の久住高原にぽつんと建つ山荘で集団生活を送っている。朝起きて夜眠るまで、一人ひとりが役割を与えられそれをきちんとこなしている。筋力アップのメニューも過酷だし、まるっきり1時間、ひたすら太鼓を打ち続ける。それが出来ないかあるいはそこでミスがあればたちまち先輩に指導される。
この風景は見たことがあるように思った。一つの思想一つの目的を抱えてひたすらこれに向かう集団だ。私は軍隊は知らないが、これに近い集団生活は経験がある。自分が落ちこぼれそうな時は自分よりも弱いものが犠牲になる。連合赤軍もオウム真理教もそのもっとも狂気の部分が突出した。集団はそんな狂気を潜在させている。
太鼓を打ち鳴らしている彼らは正しく恍惚の境地にある。そうならなくてはたどり着けない世界なのかもしれないが、私はなんだか恐ろしく感じた。
部屋に戻り、新聞を読む。それからルーフガーデンに出て、咲き終わった朝顔の花を摘み、痛んだ葉を取り除いていやる。朝は清々しいが、少し動くともう汗が流れ出してくる。摘み取った花柄や痛んだ葉を箒で集め、庭がきれいになると私の気分も満たされてくる。そうだ、こんな風に幸せだからこそ、幸せだということが先行してあんな文章になってしまったのだ。私に幸せをくれた人たちへの感謝の気持ちが先走ってしまったと思う。
昨夜は、夜の9時からNHKテレビ「金とく・和太鼓集団TAO」を見ていた。何年か前に小牧市民会館でこの集団の和太鼓演奏を見たことがある。昨夜の演奏はその時とは格段の差があると言ってよいほど見事だった。もちろん、以前見た時もすごいなとは思ったけれど、わが町の私の友人が主宰する和太鼓集団の演奏の方が私には気持ちよかった。わが町の和太鼓集団の演奏は技術的にはまだまだ幼かったけれど、演奏にはストリー性がありだからこそ芸術性に溢れていたと思う。
和太鼓集団TAOはエンターテイメントに徹していた。よくできるねと思えるアクロバットのような演奏は確かに目を見張らせるものがある。集団での演出・振り付けあるいは衣装も工夫に富んでいた。人の限界に挑戦するようなところは「競技」であり「芸術」でもある。オーケストラの演奏と違うのは、リズムしかないということだろう。韓国の太鼓、あるいはたしかタイでも聴いたような、そしてまたアフリカそれともスラブいやアマゾン、ジャズや南米音楽、東洋の太古の音、そんな世界の太鼓の音を取り入れている。
和太鼓集団TAOは愛知県で生まれたのだそうだ。初めの練習場所は小牧市だったそうだから、私が聞いたのはそんな時だったのかもしれない。今は海外での演奏活動が多いそうだが、その原動力となっている練習風景も紹介されていた。九州の久住高原にぽつんと建つ山荘で集団生活を送っている。朝起きて夜眠るまで、一人ひとりが役割を与えられそれをきちんとこなしている。筋力アップのメニューも過酷だし、まるっきり1時間、ひたすら太鼓を打ち続ける。それが出来ないかあるいはそこでミスがあればたちまち先輩に指導される。
この風景は見たことがあるように思った。一つの思想一つの目的を抱えてひたすらこれに向かう集団だ。私は軍隊は知らないが、これに近い集団生活は経験がある。自分が落ちこぼれそうな時は自分よりも弱いものが犠牲になる。連合赤軍もオウム真理教もそのもっとも狂気の部分が突出した。集団はそんな狂気を潜在させている。
太鼓を打ち鳴らしている彼らは正しく恍惚の境地にある。そうならなくてはたどり着けない世界なのかもしれないが、私はなんだか恐ろしく感じた。