友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

モンローとバルドー

2010年05月11日 22時42分00秒 | Weblog
 私が若かった頃の女優と言えば、世界的にはオードリー・ヘップバーンとかエリザベス・テーラーとかマリリン・モンローとか、アメリカのハリウッドスターだった。「一番きれいなのはモナコ王妃となったグレース・ケリーと人は言うけれど、やはりオードリーじゃないかな」と私が言うと、カミさんは「オードリーはキュートよ。美人というより私に近いチャーミングな女性ね」と言う。その結論には驚かされるけれど、女性から見るとオードリーは美人には入らないのだろうか。

 キュートという点では、オードリーよりもモンローの方がはるかに勝っているように私は思う。モンローを肉体美だけを売り物にした女優のように思っていたけれど、実際に50歳を超えてテレビで彼女の映画を観てみると、改めて可愛い人なのだなと思うようになった。私はハリウッドの女優たちはきれいなのかも知れないが、魅力的だと思わなかった。子ども頃の私は、西部劇のジョン・ウィエンの活劇に憧れても、そこに出てくる女優はまるで付属品のようなものだった。

 祖母に連れて行ってもらって観た映画で、「忠臣蔵」だったと思うけれど、吉良邸に密偵として入っていた嵯峨美智子が捕まって責められる場面を覚えている。嵯峨美智子の小さくてきれいな足がろうそく責めを受ける。何ときれいな足首なのだろうと思うとともに、なぜか恥ずかしいくらいにエロチックだった。もう一つ、何時観た映画なのか覚えはないけれど、京マチ子という女優が戦地にいく恋人のために自分の乳房を石膏で形をとって渡す場面があった。とてもきれいでドキドキした。

 このふたりの女優に続いて、印象に残っているのはフランスの女優でブリジッド・バルドーだ。これは中学生になってからだけれど、まだモノクロの映画でバルドーの裸を見た。モンローの映画では何も感じなかったけれど、バルドーには性的な興奮を覚えた。それから多分大学生になってからだと思うけれど、やはりフランスの女優でジャンヌ・モローにも惹かれた。見た目の美しさよりも個性的でエロテックな匂いが漂う女優だった。

 高校生の頃の私は全く相反する二つの自分に分かれていた。キリスト教会に通い修道士のように厳格で、それでいて既成の権威に反抗し理想を求める陽の部分と、嵯峨美智子やブリジッド・バルドーに惹かれ性的な興奮を求める陰の部分とに。私はそれをとても恥じたし、あってはならないことだと考えていた。若い時というのは、そういう点で素晴らしいと思う。白か黒かと思っても、表と裏というように一体なものとは考えることが出来なかった。

 「美智子妃殿下はウンコもオシッコもしない」と本気で言う同僚の先生がいたけれど、そんな風に考えたいくらいに、崇高なものは崇高でありたいのだ。けれど、美智子妃殿下も妊娠されたように、人の営みに大した差などない。聖的なものも性的なものも併せ持っているから人間で、だからこそ悩みそして思索するのだと思う。
コメント (1)
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