フールバルコニーでのパーティーは断念しなくてはならなかった。風は収まる様子はなく、家の中でやることにしたけれど、友だちのこの決断は正しかった。風が止んだとしても昨夜は余りにも寒かった。諦めきれないカミさんは「午前中にコーヒータイムにするからぜひ来てください」と皆さんに呼びかけていた。日頃は人を呼ぶことにそんなに積極的でないカミさんが進んで計画したので、どうかなと思っていたら、心配したとおりの結果になってしまった。今朝も風は強く、とてもルーフバルコニーでお茶を飲むような状態ではなかった。
午後7時を過ぎた今も、風は強く吹いている。朝方よりも寒く感じるほどだ。昼間はあんなにもよく晴れて暑いくらいの日差しだったが、気温そのものは平年並みであったようだ。これだけ、暑かったり寒かったりすると、いったい平年並みというのはどんな具合だったのか、分からなくなる。冬服で出かけた方がよいのか、夏服に変えていった方がよいのかも判断ができない。街を行く人々を眺めても、ミニスカートに半そで素肌丸出しの人もいれば、防寒用のダウンジャケットを羽織っている人もいる。
来週はこのマンションの友だちで台湾へ旅行する。いつも一緒に行く夫婦が急にいけなくなってしまったので、皆さんにお願いして私の80歳になった姉を連れて行くことにした。「台湾には一度行きたかった」と言っていたことを思い出し、14年も歳の違う姉への恩返しである。高校3年の1月に父が亡くなった。高校の予備校化を批判していた私は父の死で、もう大学へ行くことはないと思った。残念という思いではなく、むしろホッとした。大学受験のための勉強は拒否するとして、補習は一切受けなかったし、勉強も落第しない程度でよいと勝手に決めていたので、大学を受験しても合格は無理だろうと思っていた。
その私を姉は説得した。だから今日の自分があるのは姉のおかげであると思っている。大学は入学金こそ兄に払ってもらったけれど、後はひとりでできた。その兄が借金をつくり、保証人にもなっていて、大学2年の時に家は倒産した。私は大学の先生の家に住み込み、書生兼家庭教師を務める。大学4年の時は東京で暮らしていたが、最後の卒業制作のため帰ってきて、就職が決まるまでの1月から3月までを姉の家に居候させてもらった。東京で暮らしていた時、先輩に連れられて飲みに行った。そこで酔っ払って川に落ちた。メガネは無くした。洋服もダメにした。姉に書留でお金を送ってもらった。
今日、姉のところへ旅行の詳細が届いたので持って行った。丁度、ひとり娘と言っても50歳になるが、その娘が目の手術をするために「今日は大学病院に付き添って行くことにしている」と言うので、「そんなことなら私が連れて行ってあげる」と3人で大学病院へ出かけた。その待合の時間の中で、姉は母が死んだ時、「あんたはいたかね?」と言う。「お父さんが子どもには見せない方がいいと言って、見舞いにも来なかったよね」と言う。もう50年も前のことだから忘れてしまったのだろうけれど、そんな風に印象は残るものなのだと思った。自分が関心のあることはよく覚えていても、そうでない部分は忘れてしまうのだろう。
午後7時を過ぎた今も、風は強く吹いている。朝方よりも寒く感じるほどだ。昼間はあんなにもよく晴れて暑いくらいの日差しだったが、気温そのものは平年並みであったようだ。これだけ、暑かったり寒かったりすると、いったい平年並みというのはどんな具合だったのか、分からなくなる。冬服で出かけた方がよいのか、夏服に変えていった方がよいのかも判断ができない。街を行く人々を眺めても、ミニスカートに半そで素肌丸出しの人もいれば、防寒用のダウンジャケットを羽織っている人もいる。
来週はこのマンションの友だちで台湾へ旅行する。いつも一緒に行く夫婦が急にいけなくなってしまったので、皆さんにお願いして私の80歳になった姉を連れて行くことにした。「台湾には一度行きたかった」と言っていたことを思い出し、14年も歳の違う姉への恩返しである。高校3年の1月に父が亡くなった。高校の予備校化を批判していた私は父の死で、もう大学へ行くことはないと思った。残念という思いではなく、むしろホッとした。大学受験のための勉強は拒否するとして、補習は一切受けなかったし、勉強も落第しない程度でよいと勝手に決めていたので、大学を受験しても合格は無理だろうと思っていた。
その私を姉は説得した。だから今日の自分があるのは姉のおかげであると思っている。大学は入学金こそ兄に払ってもらったけれど、後はひとりでできた。その兄が借金をつくり、保証人にもなっていて、大学2年の時に家は倒産した。私は大学の先生の家に住み込み、書生兼家庭教師を務める。大学4年の時は東京で暮らしていたが、最後の卒業制作のため帰ってきて、就職が決まるまでの1月から3月までを姉の家に居候させてもらった。東京で暮らしていた時、先輩に連れられて飲みに行った。そこで酔っ払って川に落ちた。メガネは無くした。洋服もダメにした。姉に書留でお金を送ってもらった。
今日、姉のところへ旅行の詳細が届いたので持って行った。丁度、ひとり娘と言っても50歳になるが、その娘が目の手術をするために「今日は大学病院に付き添って行くことにしている」と言うので、「そんなことなら私が連れて行ってあげる」と3人で大学病院へ出かけた。その待合の時間の中で、姉は母が死んだ時、「あんたはいたかね?」と言う。「お父さんが子どもには見せない方がいいと言って、見舞いにも来なかったよね」と言う。もう50年も前のことだから忘れてしまったのだろうけれど、そんな風に印象は残るものなのだと思った。自分が関心のあることはよく覚えていても、そうでない部分は忘れてしまうのだろう。