お盆休みなのか、街中が静かだ。今日は何もすることがなく、一日中高校野球を見ていた。接戦の試合は面白いけれど、一方的になってくると不作為な作戦に腹が立ってくる。本当は監督も選手たちも見ている私以上に焦っているのだろうけれど、同情心よりも苛立ちが先に立つのだから私の心も小さいなと思う。それで一日に4試合も見ていると、これまではそんなことがなかったせいか、何だかとても疲れてしまった。
母は自宅で洋裁学校を開いていた。夏休みの頃は、縫い物をしながら高校野球をラジオで聞いていた。洋裁学校の生徒さんの中に他県生まれの人がいたのかもしれないが、おそらくまだ嫁入り前の若い女性がほとんどだったので、高校野球は人気があったのだろう。母は感情のハッキリした人だったので、いつも弱い方のチームに肩入れしていた。逆転でもしようものなら、大声で喜んでいた。
私が中学3年の正月過ぎくらいから体調を崩し、高校に入学した頃には名古屋の日赤病院に入院した。正月前は毎年のことだったけれど、晴れ着を縫い上げるために徹夜をしていた。あまり無理したために疲れたのだろうと私は思っていた。この年の冬、私は母からハーフコートを仕立ててもらった。母は中学3年の私に「お前が面倒を見るんだよ」とか「お前が頼りなんだからね」とよく言った。
私は3男だったけれど、いつか大きくなって働いて母を楽にしてあげたいと思うようになっていた。長男は祖父の養子になっていたので、母にとって実質的には私が長男だった。豪快に笑う母だったのに、この頃は愚痴っぽくなっていた。父が「わが道を行く」タイプの勝手な人だったので、母は私を自分の思い描く男にしたかったのだろう。「男はジェントルマンじゃなくちゃーダメだよ」とか「男は女を泣かせるものじゃーないよ」と言っていた。
女性のためにドアを開けるとか、荷物は持つとか、私は母の言いつけを守ってきたけれど、今に思えば、母はそんなことだけを私つまり男に期待していたのではないと思うようになった。女を泣かせてはいけないという意味ももっとハバの広いものを指していた。それはまた、大人の男と女の問題で、難しいことだと分かるようになった。母は父の「夢物語」である「自由恋愛」に振り回されてきたからだ。
夏休みはよく母の実家へ連れて行ってもらった。母の実家は農家だった。農作業や運搬のために牛を飼っていた。離れに母の母親であるおばあさんが住んでいた。おばあさんは私が行くと、ボンタンという果物を取ってきてくれた。けれど、昭和20年代の農家はビックリするほど不衛生で、ハエが食べ物の周りに飛び交い、食事もノドを通らなかった。
それでも母と在所へ行くと、親戚や知り合いなのかよくわからない家にも連れて行ってもらい、あっちこっちで歓待されたことを覚えている。母は村の誇りのような出来る子だったようだ。それが、役者のような色白の年下の夫を連れてきた評判になったそうだ。確かに若い時の父は、島崎藤村のような風貌で、穏やかな文学青年はこの村では珍しい存在だったのだろう。
母は自宅で洋裁学校を開いていた。夏休みの頃は、縫い物をしながら高校野球をラジオで聞いていた。洋裁学校の生徒さんの中に他県生まれの人がいたのかもしれないが、おそらくまだ嫁入り前の若い女性がほとんどだったので、高校野球は人気があったのだろう。母は感情のハッキリした人だったので、いつも弱い方のチームに肩入れしていた。逆転でもしようものなら、大声で喜んでいた。
私が中学3年の正月過ぎくらいから体調を崩し、高校に入学した頃には名古屋の日赤病院に入院した。正月前は毎年のことだったけれど、晴れ着を縫い上げるために徹夜をしていた。あまり無理したために疲れたのだろうと私は思っていた。この年の冬、私は母からハーフコートを仕立ててもらった。母は中学3年の私に「お前が面倒を見るんだよ」とか「お前が頼りなんだからね」とよく言った。
私は3男だったけれど、いつか大きくなって働いて母を楽にしてあげたいと思うようになっていた。長男は祖父の養子になっていたので、母にとって実質的には私が長男だった。豪快に笑う母だったのに、この頃は愚痴っぽくなっていた。父が「わが道を行く」タイプの勝手な人だったので、母は私を自分の思い描く男にしたかったのだろう。「男はジェントルマンじゃなくちゃーダメだよ」とか「男は女を泣かせるものじゃーないよ」と言っていた。
女性のためにドアを開けるとか、荷物は持つとか、私は母の言いつけを守ってきたけれど、今に思えば、母はそんなことだけを私つまり男に期待していたのではないと思うようになった。女を泣かせてはいけないという意味ももっとハバの広いものを指していた。それはまた、大人の男と女の問題で、難しいことだと分かるようになった。母は父の「夢物語」である「自由恋愛」に振り回されてきたからだ。
夏休みはよく母の実家へ連れて行ってもらった。母の実家は農家だった。農作業や運搬のために牛を飼っていた。離れに母の母親であるおばあさんが住んでいた。おばあさんは私が行くと、ボンタンという果物を取ってきてくれた。けれど、昭和20年代の農家はビックリするほど不衛生で、ハエが食べ物の周りに飛び交い、食事もノドを通らなかった。
それでも母と在所へ行くと、親戚や知り合いなのかよくわからない家にも連れて行ってもらい、あっちこっちで歓待されたことを覚えている。母は村の誇りのような出来る子だったようだ。それが、役者のような色白の年下の夫を連れてきた評判になったそうだ。確かに若い時の父は、島崎藤村のような風貌で、穏やかな文学青年はこの村では珍しい存在だったのだろう。