初夏を思わせるような日だった。井戸掘り作業は順調に進んでいるが、明日は山場になるだろう。新しく作ってもらった道具が果たして役に立つのか、その成果によってはどこからの注文にも応じることができるはずだ。そしてもうひとつ心配なことは、私たちのリーダー的存在の先輩の体調がよくないことだ。先日は朝方に天井がぐるぐる回り、立って居られなくなったと言うし、今朝も食べたものを皆吐いたと言う。「念のためだから病院で診察してもらった方がいい」と思ったので、仲間に病院へ送ってあげてと頼んだ。
先日、目が回ったのはメヌエル病と診断されたと言うけれど、どこにどんな病魔が隠れているとも限らない。「まあ、ここまで生きてきたんだから充分だ」と考える人なら、それはそれでいいけれど、まだ思い残すことがあるようなら、やはり体調管理に気を配った方がいい。私たちは気心が知れた仲間だからこそ、まずは病院で診察をしてもらう方がいいと勧めた。診断を受けたその次は、本人が決めればいいのだから。
花に水をやっているといろんなことに気付く。同じ日に植えたチューリップでも品種によってか、花を咲かせる時期が違う。ひとつの鉢から同じ色の花が咲いているのは、昨年買って植えたものだ。まだ背丈が伸びていない鉢のものは、昨年花を咲かせたものの中から大き目の球根を選び植えたものだろう。一昨年かその前に買った球根はどんな色のものか区別なく植えてしまった。同じ色の花が揃う方が遠くから見るときれいだが、ランダムに植えたものはどんな感じになるのか、楽しみでもある。
ランタナは繁殖力が強く、次々に落ちた種から芽を出してくる。それを育てていたら30鉢以上になってしまった。鉢で育てたものでも発芽して1年目で背丈は15センチほどになる。2年目や3年目のものなら、幹もかなり太くなっている。長女のところは地植えなので、背丈は1メートルを越えるし、幹の太さも3から4センチになっている。鉢植えのものに水をやっていると、1年目の小さいものは幹から若芽が吹き出してきているのに、古くて大きなものはまだ枯れ木のままだ。本当に生きているのかと心配になる。
私の胃痛は少し楽になった。何が原因なのかわからないけれど、どうも気楽に考えられない性分なのかも知れない。いやそうでもないような気もする。「あなたはいいわね。極楽トンボで」と言われたこともあるから、かなりマイペースな人間なのだろう。「人には優しく、自分には厳しく」と私は子どもたちに言い聞かせてきたけれど、それはまた自分の人生目標というか、戒めであった。そう心がけているのに、いつの間にか「自分には厳しく」が吹っ飛んでしまっていることがある根性無しなのだ。
若いうちは木も草も生命力が強いけれど、年月を重ねてくると生きる力も弱くなってくるのだろうか。ちょっと寂しい気がするが、またそうでなければ摂理とはいえない。必要とされているうちは生きているだろう。
先日、目が回ったのはメヌエル病と診断されたと言うけれど、どこにどんな病魔が隠れているとも限らない。「まあ、ここまで生きてきたんだから充分だ」と考える人なら、それはそれでいいけれど、まだ思い残すことがあるようなら、やはり体調管理に気を配った方がいい。私たちは気心が知れた仲間だからこそ、まずは病院で診察をしてもらう方がいいと勧めた。診断を受けたその次は、本人が決めればいいのだから。
花に水をやっているといろんなことに気付く。同じ日に植えたチューリップでも品種によってか、花を咲かせる時期が違う。ひとつの鉢から同じ色の花が咲いているのは、昨年買って植えたものだ。まだ背丈が伸びていない鉢のものは、昨年花を咲かせたものの中から大き目の球根を選び植えたものだろう。一昨年かその前に買った球根はどんな色のものか区別なく植えてしまった。同じ色の花が揃う方が遠くから見るときれいだが、ランダムに植えたものはどんな感じになるのか、楽しみでもある。
ランタナは繁殖力が強く、次々に落ちた種から芽を出してくる。それを育てていたら30鉢以上になってしまった。鉢で育てたものでも発芽して1年目で背丈は15センチほどになる。2年目や3年目のものなら、幹もかなり太くなっている。長女のところは地植えなので、背丈は1メートルを越えるし、幹の太さも3から4センチになっている。鉢植えのものに水をやっていると、1年目の小さいものは幹から若芽が吹き出してきているのに、古くて大きなものはまだ枯れ木のままだ。本当に生きているのかと心配になる。
私の胃痛は少し楽になった。何が原因なのかわからないけれど、どうも気楽に考えられない性分なのかも知れない。いやそうでもないような気もする。「あなたはいいわね。極楽トンボで」と言われたこともあるから、かなりマイペースな人間なのだろう。「人には優しく、自分には厳しく」と私は子どもたちに言い聞かせてきたけれど、それはまた自分の人生目標というか、戒めであった。そう心がけているのに、いつの間にか「自分には厳しく」が吹っ飛んでしまっていることがある根性無しなのだ。
若いうちは木も草も生命力が強いけれど、年月を重ねてくると生きる力も弱くなってくるのだろうか。ちょっと寂しい気がするが、またそうでなければ摂理とはいえない。必要とされているうちは生きているだろう。