友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

いくつになっても

2012年05月30日 19時19分29秒 | Weblog

 介護施設で働く女性たちの話を聞いているとなかなか面白い。施設を利用する人にはいろいろなタイプがあり、学歴も職歴も様々だ。積極的にみんなの輪に入ろうとする人もいれば、かたくなまでに仲間に加わらない人もいる。そうしたいろんなタイプの人を見極めて、上手に対応しないといけない。認知症が進んでいるからと無視したりすれば、そういう感覚は鋭いもので、怒りをぶつけられてしまう。ベテランはその見極めが確かで、気配り目配りの出来る人だ。

 法の改正で利用者が施設にいる時間が長くなった分、対応する職員も長時間勤務になったそうだ。そこで延長となる時間を考えて、時間割を組むことになる。カレンダー作りや壁飾りなどの手作業は得意な人もいれば不得手の人もいる。作る前から、子供だましで馬鹿馬鹿しいと拒否する人もいれば、そう言いながらもやっているうちに夢中になってしまう人もいる。昔話をさせるところもあるし、絵を描かせたり書を書かせたりするところもある。俳句や合唱などをするところもあるそうだ。

 私の経験では、歌は力がある。歌を歌わない人も中にはいるけれど、昭和20年代の聞いたことのある歌にはかなり多くの人が口ずさむ。施設だけではない、職場でも学校でも、人は1日にせめて1回は、腹の底から声を出したいものだ。声を上げることで気持ちがスッキリするように出来ていると思う。歌でもいい、おしゃべりでもいい。同じ歌の繰り返しでもいいと思う。むしろその方がよいのかも知れない。みんなが声を出せる歌を選んで、出来るだけ大きく声を出すことがいいと思う。

 「男はいくつになっても男ね」と言う。介護士さんは女性が多いので、男たちは「オレはこんなにモテタ!」という自慢話をしたがる。中には触ってくる元気な年寄りもいる。在宅介護に行っていた私の中学時代の友だちも「おじいさんがすぐに触ってくる」と困っていた。同性としては、恥ずかしいというよりも申し訳ない、そういうものなのだから許してやって欲しいと思ってしまう。いくつになっても女性を愛おしいと思う男たちこそ可愛いではないか。

 女性の中にも老いぼれた爺さんに積極的な人がいないわけではないが、どういうわけか数は少ない。道徳心というか、社会観念に強く縛られてきたからだろうか。病院で亡くなる間際に妻の名を呼んだ夫がいた。看護師は妻にそのことを伝えたが、彼女は「その時に知らせてくれたなら何を置いても駆けつけたのに、臨終に立ち会えなかったことが悔しい」と言う。それは看護師の落ち度だったかも知れないが、妻への思いやりの言葉だったかも知れない。そんな話をする妻には、「よかったわね。本当に愛されていたのね」と言葉をかけるべきだろう。彼女もそれを期待している。

 男よりも女は、愛したことよりも愛されたことの方にウエイトがあるのだろうか。臨終の間際になれば人は誰も、「私は愛されていた」と思いたいものなのか。まだまだよく分からないと言うことは、まだまだ死ぬことは出来ないと言うことなのか。いくつになってややこしいのが人間というものらしい。

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