今朝、セミの鳴き声を聞いた。アブラゼミだろう。今年初めてのセミの鳴き声だ。昨日までの雨で土が軟らかくなり、地表に出やすくなったのだろう。セミの声を聞くと夏だなと思う。昨年はいつからセミが鳴き出したのか覚えていないけれど、なんとなく今年は遅いような気がする。そう思いながらセミの声を聞いていると、目の前のゴーヤのツルに1匹のセミが飛んできて止まった。アブラゼミかと思ってよく観るとクマゼミだった。クマゼミの北限が上がっていると言うが、こんなに早い時期に現れたのは珍しいのではないだろうか。
セミがけたたましく鳴くようになれば夏真っ盛りだけれど、午後からはセミの鳴き声が聞こえなくなった。町の有線放送から、今晩は夏祭りが行なわれるので集まってと呼びかける声が流れてきた。私は家から1歩も出ず、セミの声ばかり気にしていたけれど、子どもたちはもう夏休みで、今日はその最初の日曜日。いつもなら、学校の運動場でキャッチボールをする父子の姿が見られるのに、運動場には誰もいない。若い親子は夏祭りに出かける準備でもしているのだろうか。
気候がよくなると、必ず深夜に子どもらが集まり運動場で奇声を上げてやかましくなる。午後11時くらいまでなら仕方ないと思えるけれど、午前2時・3時まで騒いでいるとさすがに腹が立ってくる。我慢できない大人は私だけではないようで、しばらくするとパトカーがやって来て、子どもたちは散って行く。けれども夏場はいたちごっこで、学校の運動場に居たかと思うと近くのコンビニに集まって大声で叫んでいる。声を上げなければ、静かに眠ることが出来るのだから、通報する人もいないのだろうけれど、それでは子どもたちは面白くないのだろう。
私も中学生の時、仲の良かった近所の友だち5・6人で、自転車に乗ってかなり遠くまで出かけたことがある。昔はコンビにもなかったし、夜に集まれる場所もなかったから、夏祭りの夜くらいしか出歩くことはなかった。エロ本を回し読みしたり、好きな女の子の家を遠くから眺めたりしたこともあったけれど、私がキリスト教会に通うことに熱心なり、3年生になる頃からそういう遊びもなくなった。今の子どもたちのように、やりきれない気持ちになることもなく、毎日が楽しかったのだと思う。
先日も80歳の先輩が、「戦後の民主主義はこんなものではなかった。もっと輝いていた」と言った。先輩は中学生の時に終戦を迎え、青年時代に60年安保を経験している。私たちの世代は戦後民主主義の高揚期に教育を受け、児童会や生徒会による自主運営が勧められた。でもそれは形ばかりで決して自治ではなかった。最終的には生徒指導部の先生が許可を与えるものだったから、「こんなものは民主主義ではない」との思いが私には根強い。
先日のクラス会で、還暦を迎えた子どもたちが当時を懐かしんで歌った中に、『友よ』があった。「夜明けは近い、夜明けは近い」というあの歌だ。あれから45年(?)経ったのに、全然変わっていない。だけれども、変わっていないのは自分たちに責任があると考えられるようになったのは大きな進歩だろう。昨夜、南こうせつと吉幾三が泉谷しげるの『春夏秋冬』を歌っていた。「今日ですべてが終わる 今日ですべてが変わる 今日ですべてが始まる」。そんな時代だった。