友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

友人の苦言

2015年06月01日 20時26分37秒 | Weblog

 2週間近く里帰りしていた次女たちが仙台へ戻って行った。途中で2日間の家族旅行はあったものの、ほとんど毎日のようにこちらの友だちと会っていた。昨日は、小学校の時の先生や幼友だちが東京やタイからもやって来て、何家族かが集まって食事会をやっていた。私たちも呼ばれて部屋に入ったけれど、20年以上も会っていない人もいて、初めは戸惑ってしまった。

 考えてみれば次女も1歳の母親とはいえもうすぐ41歳になるわけで、同学年の彼女たちも40代である。子どもが何人もいる人もいるが、内ふたりはまだ独身だ。ふたりとも語学が堪能で仕事が好きだから、まだまだ結婚する気はないようだ。海の近くで生活しているから白かった肌も小麦色に変わり、露出した背中にシミが広がっていた。

 友だちは幾つになってもいいものだ。私も今月、小学校の時のクラス会に出席する。担任の先生は認知症が進み、出席できないが止むを得ない。既に何人かの同級生もこの世を去っている。いつか、私自身も出席できなくなるが、それまではできる限り参加するつもりでいる。今夕、マンションの傍のスーパーの出入り口の所で、同じマンションの人が座り込んでいた。名前は知らないが、いつも元気な人だったので、「どうしました?」と声をかけた。

 「ちょっとしんどいから休んでいる」と言うが、顔を見ると確かに覇気がない。「一緒に行きましょう」と誘うけれど、「いや、もう少しここで休んでいる」と手を横に振る。気になったけれど、この店はマンションの人の出入りが多いから、私よりもっとよく知っている人がいればきっと声をかけてくれるだろう。そう思って帰って来て、先日の出来事を思い出した。

 それはこの市で、同じ学年の者たちが毎年集まりを持っているが、その会で写真を撮ってくれている人から、「お金が欲しくて言ってるわけではないが、あんたたちから『ありがとう』の言葉もない。あんたたちは『ワシの写真を撮ろう』という優しさもない」と言われた。みんながそれぞれに役割を分担し、納得して務めてくれていると思うのは私の勝手で、だからこそ「ありがとう」の一言や「換わろうか」の一言が大切だったと思い知らされた。

 私たちはいつ立場が逆転するか分からない。「思いやり」などと口にしていても、相手の立場で考えなければ、ただの「思い込み」でしかない。今頃になって、スーパーの出入り口で座り込んでいた人のことが気になってきた。

コメント
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