友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

時を惜しんで行われる運動会の練習

2016年09月21日 18時09分37秒 | Weblog

 昨日の台風はどこに行ったのかと思うような、秋晴れとはならなかった。台風が通り過ぎ、穏やかにはなったものの、空はどんよりと曇っていて時々雨も降って来る。それでも小学校の運動場では少しでも時間を惜しむように、雨が止んでいる間、運動会に備えて猛特訓が繰り返されている。運動場は水はけがよいとはいえ、「腰を下ろして、こちらを向く」と先生の命令が下ると、聞いている私の方が「冷たい」と思ってしまう。

 やはり一番繰り返し練習するのは行進のようだ。それぞれの競技は始まってしまえばうまく出来たかどうかは分からないが、行進だけは目に付くから徹底的にやることになる。行進練習の体育的価値は何だろうと子どもの頃から疑問だった。一糸乱れずに行進しても、見ている側は「良く出来た」と評価するとしても、行進している側の教育上の意味は何だろう。全体の中のひとりと自覚することで団結を覚えることなのだろうか。

 「右向け右」とか「前に進め」とか「ぜんたい止まれ」と、命令する人は気分いいだろう。自分の一声でこんなにたくさんの人が動くことはまずない。学校という機関だから出来る。同じ大人にこんな命令が出来るのは軍隊や警察のような「命令に従う組織」しかない。学校でのこうしたぜんたい行動は、知育と体育で「富国強兵」の国家を目指した明治政府が残したものなのに、今もまだ続けられているのはどうしてなのだろう。

 中学の時、行進練習中に笑った女の子がいた。体育の先生は真顔になって「笑ったのは誰だ。何がおかしい」と怒鳴った。するとその女の子は何の屈託もなく、「でって、おかしいもん」と平気で言った。その後どうなったのか知らないが、私はその子に惹かれた。ちょっと変わったトンチンカンなところのあるその女の子が初恋の人となった。

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