蒸し暑い。室内でも湿度は75%ある。梅雨のようにじめじめしている。曇り空が続いていたので水やりを怠けていたら、アジサイの葉が黒くなってしまった。今日は雨が降ったり、そうかと思えば陽が差したりと目まぐるしい。この蒸し暑さは精神的にも悪い気がする。もうすぐ10月だと言うのに、爽やかな秋はまだ先のようだ。
気分が晴れないのは日本の現状と同じだ。民放テレビは東京都の小池知事の所信表明に注目していたが、国会では民進党の蓮舫党首が代表質問を行っていたが、NHKの国会中継を見る人はどれほどいるのだろう。舛添前知事のおかげで、東京都民だけでなく全国民が、政治とカネに関心を持つようになったから、小池知事の誕生でさらに注目度が上がり、豊洲移転問題でいっそう拍車がかかった。
それでもアメリカの大統領選挙の討論会のようなやり取りは見られない。日本の議会は事前通告制なので、双方がしゃべる内容があらかじめ原稿で渡っているからまずハプニングは起きない。言い放し聞き放しで、絡み合うこともない。弁論大会はあっても、アメリカのような討論の経験がない。それに日本ではなんとなく、相手を徹底的に論破することは品のない行為と思うところがある。
友だちがブログでアメリカ大統領選挙に触れ、「ジャーナリストはできる限り、中立の立場でバランスのある報道を行うよう訓練されているはずで、特定の候補者への支持表明はジャーナリズム精神に反する行為」と書いていた。でもそれは「認識不足」である。もともとヨーロッパの新聞は主張するものだった。アメリカでは主張することで新聞の購読者を増やしてきた。
「報道」が中立でなければならないとか、バランスを考えなければならないというのは日本の独特の考え方ではないだろうか。2つの対立した意見があれば、同じくらいの量で報道することが「公平」と考えている。「公共の器」という言葉さえある。だから、報道は中立で公平なものと国民は思い込んでいる。政府批判をすれば偏向した報道と注意までされてしまうのも、国民の多くが「公共の器」と信じているからだ。
報道は偏っている。あなたはどちらを支持するか?となれば、自分が好きな新聞やテレビを応援すればいい。そうでなければ、「言論の自由」は守れない。日本の「報道の自由」はかなり低いのに誰も苦にしていない。国がどうなるかは国民がどう考えているかにかかっている。