友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

運動会の行進練習

2018年09月13日 16時05分02秒 | Weblog

  曇り空だったので運動会の練習にはもってこいだった。運動場では朝早くから、全体練習と各学年ごとの練習が繰り返し行われた。運動会の当日、子どもたちが迷わないように、入場から退場まで、先生たちは厳しく指導していた。全体で歌う校歌は相変わらず、「もっと大きな声で、元気よく」と檄が飛ぶ。いい歌なのに、そんなに怒鳴るように歌うことないのにといつも思う。

 行進練習もそうだ。「前へ進め」の掛け声でピタリと動き、先生の吹く笛のリズムに全員がひとつになって動く。ひとりでもぎこちなく動けば、「合っていない」と注意が飛び、何度も繰り返し練習する。停止する時も必ず、「イチ、ニ」で止まる。出来なければもちろんやり直しだ。子どもたちも前を見つめ、声を合わせて真剣そのものだ。

 私は教育実習で小学校へいったことはあるが、運動会の時期ではなかったので、こうした行進練習にどんな教育的効果があるのか知らない。知らないというより懐疑的だ。まるで北朝鮮の軍事パレードみたいと思ってしまう。一糸乱れぬ行進は、「みんなを見に来てくれるお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんにしっかり見てもらおう」と、先生は意味付けしていた。

 「ピッ、ピッ」と自分の吹く笛で、機械のように動かせることに先生は満足かも知れないが、何度も同じことをさせられる子どもたちは気の毒だ。私は小学生の時も、中学生の時も、どうしてこんなに行進練習をしなくてはいけないのかと思ったのに、口には出さず、黙々と従った。高校で生徒会長になって、自分の前をみんなが隊列を組んで行進するのをちょっと得意になって眺めた。

 どうやら人間は高い所に立つと、なぜかエラクなったように思ってしまう。たいしたことのない人間でも、何かの弾みで高い所に祭り上げられると、それだけで格別な存在になったと錯覚してしまう。そんなことを思いながら、先生たちの厳しい檄を聞いていた。運動会はいつ行われるのだろう。

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