友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

犯人探しではダメ

2007年09月06日 22時31分07秒 | Weblog
 中学校の教室のうしろ、教壇に向かい合う壁は掲示板になっている。そこにクラスの子どもたちのスナップ写真が貼ってある。その写真を見て、担任は慌てた。写真の中の子どもの顔や身体に画鋲の痕がはっきりとあったからだ。子どもだけでなく、先生の身体にも画鋲の痕があった。クラスに「いじめ」がある。担任はそう思ったのだろう。

 「うしろの写真に画鋲を刺したものがいる。正直に名乗りあげてくれれば、大げさにはしない。明日まで待つから、正直に言って欲しい」。担任はそう言った。翌日になっても誰も名乗りあげなかった。担任は怒った。「もう一度聞く。画鋲を刺したものは正直に手を上げなさい」。誰も手を上げなかった。「これはクラスみんなの問題だ。解決できるまでみんなでよく話し合うように。それまでは部活は禁止する。教室から出ることも許さない。級長と副級長は前に出て、話し合いを進めなさい」。

 話し合いはできなかった。級長と副級長が発言を求めたが、みんな押し黙ったままだ。長い時間が経過して、一人の男の子が手を挙げた。「オレがやった。そういうことにしてくれていい。いつまでここでジッとしていても意味ない」。ちょっとムキになってそう言った。けれでも、彼がやっていないことは明白だった。「それはおかしいじゃーないか」「やっていない人が名乗り出ても解決にはならない」「じゃー誰がやったんだ」。また堂々巡りになった。

 副級長は、画鋲で刺されていた子が「私の写真が出ていてイヤ」と、ポツリと話したことを思い出して、「誰がやったかはわからない。やられた本人かもしれないし、ヨソのクラスの子が入ってきてやったかもしれない。誰がやったかはわからないのだから、もうおしまいにしよう」と言った。それで、その結論を担任に伝えた。スッキリはしなかったが、これ以上話し合いは進められないと思ったのだ。

 クラスのスナップ写真に画鋲が刺された痕を見つけて、担任はこの先を考えた。そこで彼は「芽」は小さいうちに摘み取っておかなくてはとの結論に至った。そして次に、「画鋲を刺したものは正直に名乗りあげなさい」と言った。ベテラン教師は「若い先生は神経質になりすぎる。子どもはいたずらをするものだ。確かにいじめの兆候かもしれないが、私なら、まず写真をはずしてしまう。それから子どもたちに残念だと話し、今後絶対にこんなことをしてはならないと、なぜしてはならないかについて話すよ」と言う。

 若い担任もまず何よりもクラスのみんなが仲良しであってほしいと考えたはずだ。「クラスみんなの問題だ」と言ったのも、どうしたらこのような行為をなくし、みんなが仲良くなれるのかを考えて欲しいと思ったからだろう。けれども、出てしまった言葉は「誰がやったのか、正直に名乗り出て欲しい」というものだった。ハイ、わかりました。私ですと誰が言い出せるというのだろう。犯人探しが深まれば、クラス全体が疑心暗鬼になってしまう。誰もが信じられないということだ。仮に犯人探しができたとしても、それはかえって気まずい雰囲気になるだろう。さらに今度はみんなで犯人をいじめる構図になってしまうかもしれない。

 教師の世界も未だに変らないのだなと思う。私が子どもの頃も、何かがあると教師はすぐ「誰がやった?」とわめいた。犯人探しをして、次に何をしようとしたのか。そもそも、みんなが仲良くなるようにしたかったのに、なぜ犯人探しをしようとしたのか。余りにも考えのないままに、まるで普通のおじさんやおばさんと同じレベルで事態を考えてしまっていないか。私は腹を立てている。けれども孫娘は「心が狭い」と言う。
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