友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

日々酔如泥

2007年06月04日 22時10分28秒 | Weblog
  李白一斗詩百編
  長安市上酒家眠
  天子呼来不上船
  自称臣是酒中仙

 これは李白(701-762)の詩です。李白はずいぶん酒飲みだったようです。それにこの詩がいつ作られたかは知らないが、彼は宮廷の御用詩人なのに、皇帝から「船遊びに出るから、李白を呼んで参れ」という命令が来ているのに、「私は酒を飲めば仙人」と開き直って「船に乗らない」。よほど詩を作る能力があったのでしょう。皇帝の命令に歯向かう者として殺されたかもしれない時代にあって、その豪傑振りには感心します。

 高校で学んだ李白の詩がどういう題であったか覚えていないが、「秋浦の歌」のようなスケールの大きな詩であったような気がします。数字を並べて圧倒するような詩は確かに宮中では重宝されたと思います。私の記憶では、雄大な風景や酒の詩を得意とした詩人のイメージが強く残っています。けれども上記のような詩を作っていたことも確かで、かなり反骨の詩人でもあったようです。

  三百六十日
  日日酔如泥
  雖為李白婦
  何異太常妻

 「1年中、毎日どろむしのようだ(酒がなければ元気が出ない)」、この後の「李白の婦(嫁)は、太常の妻と同じだ」という訳でよいのだろうかと、ちょっと不安ですが、大酒飲みの李白が「内(つま)に贈る」と題して作った詩だというから、こんな意味ではないだろうかと思います。太常は天子の廟に仕える役人で、昔、太常の職にあった人が1年に1回しかない休暇に奥さんが会いに行くと、その太常は泥酔していたことを引き合いに出して歌ったのだと解説書にありました。それにしても、李白という人は反骨ばかりでなく、しゃれっ気のあった人のようです。

 私の友人にも「人生酒なくしてなんぞの楽しみがあろうか」と言う人がいます。1年365日、お酒を欠かしたことのない人です。それでも健康で70歳近くまで生きてこられたのですから、やはり幸せというほかありません。私も近頃では彼に習って晩酌を欠かせないようにしています。しかし、一緒に「飲もう」と言うカミさんの方がしばらくすると船を漕ぎ出してしまうので、酔いが醒めてしまいます。

 また、私の中学・高校時代からの友人は、病気が回復したからと「浴びるように酒を飲んでいる」と彼の奥さんが言います。「いいじゃーないか。これから何かやらなくてはならないわけではなく、人生の終わりを迎えているんだから、思いのままにさせてあげたら」と、私は無責任なことを言ってしまってから、イヤイヤ本当に、それがために家族に大きな損害や負担をかけることになるのでなければ、好きなようにやらせてやって欲しいと願いました。これは私自身の願いでもあります。
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