私の中学高校からの友だちが、最近ブログでおかしなことを書いている。彼は身体も大きく、がっちりした体型だが、私に言わせれば誠に甘えん坊だ。苦労している割には昔から人に、特に女性に甘えたがる。私の大学時代の友だちにも彼によく似た男がいた。頭もよいし、何でもできるのに、どうしてか甘えたがるのだ。「自治会の総責任者なのだから最後のところはあなたが結論を出し、あなたが指示しなくてはならないよ」と言うのに、もたれかかってきた。
中学高校からの友だちは、昨夜のブログで「ボクはあなたを忘れない。ボクは死ぬまで忘れない。いいんだ あなたは忘れてもいいよ」などと書いている。どうしていつも、心と裏腹なことを口にするのだろう。私は彼に「自分が傷つきたくないからではないか」と言ったことがあったが、今もそう思う。
詳しいことは何も知らない。彼が13年間も付き合っている女性がどういう人かも知らないし、付き合っているというのはブログの中であって、本当はどうなのかも知らない。だけど、彼のブログ上の「友だち以上恋人未満」「今一番大切な女友だち」に対して、「ボクは死ぬまであなたを忘れない」と言いながら「あなたは忘れてもいいよ」などというその言い方が私には気に入らない。素直でない奴だなと思ってしまう。
彼は健康診断で肺に二つの腫瘍があり、医者から手術を薦められたことで、パニックになっているようだ。そこで彼は、大切な女友だちの方から愛想尽かしをしてもらい、離れていく算段をしているのだ。大切な女友だちの目の前で、かつて知っている他の女性と親しくして見せたりする。こういうことって、確か高校生の頃もあったような気がする。自分を嫌いになって欲しいというのは、裏返せばもっと自分を好きになって欲しいということだ。愛想尽かすだろうというのも、さらにいとおしくなって欲しいというものだ。
彼はいつも自分から自分の望みを言い出さない。深刻な検査を受けたことのない私が言うのは間違っているかもしれませんが、検査の結果が悪性だったら、それが何だというのだ。すぐ翌日に死ぬのですか。私は、もしそうであったとしても、拒否することが出来ないことは厳粛に受け止めようと思います。死がはっきりわかることはありがたいことではないでしょうか。それならそれで、自分が何をするのか決めることができます。
彼は「私が負担にならない道が、私が最後に取るべき道だという結論に達しました」と言います。本当にそれでよいと考えるなら、今度一切、大切な女友だちとの連絡を絶つことでしょう。ブログで女々しく、「ボクはあなたを忘れない」などと書かないことです。ひたすら奥さんや娘さんやお孫さんのことだけを書き綴ることです。どうせ私たちはいつか死にます。死んでしまえば、すぐに忘れられてしまいます。私たちがたくさんの人の死を忘れてきたように。それが人の世界、無常の世界でしょう。
自分がどう生きるか、生きているか、それに尽きるようですが、それも実は誠にあいまいだと私は思います。昨夜のミュージカルではありませんが、「生きている」ことでいいような気がしています。私が「生きている」ことは恥の上塗りばかりですが、それも死んでしまえばおしまいです。死んだ方が勝ちというものです。これだけけしかけても、きっと彼は変らないでしょうね。それが生きるということなのでしょう。
中学高校からの友だちは、昨夜のブログで「ボクはあなたを忘れない。ボクは死ぬまで忘れない。いいんだ あなたは忘れてもいいよ」などと書いている。どうしていつも、心と裏腹なことを口にするのだろう。私は彼に「自分が傷つきたくないからではないか」と言ったことがあったが、今もそう思う。
詳しいことは何も知らない。彼が13年間も付き合っている女性がどういう人かも知らないし、付き合っているというのはブログの中であって、本当はどうなのかも知らない。だけど、彼のブログ上の「友だち以上恋人未満」「今一番大切な女友だち」に対して、「ボクは死ぬまであなたを忘れない」と言いながら「あなたは忘れてもいいよ」などというその言い方が私には気に入らない。素直でない奴だなと思ってしまう。
彼は健康診断で肺に二つの腫瘍があり、医者から手術を薦められたことで、パニックになっているようだ。そこで彼は、大切な女友だちの方から愛想尽かしをしてもらい、離れていく算段をしているのだ。大切な女友だちの目の前で、かつて知っている他の女性と親しくして見せたりする。こういうことって、確か高校生の頃もあったような気がする。自分を嫌いになって欲しいというのは、裏返せばもっと自分を好きになって欲しいということだ。愛想尽かすだろうというのも、さらにいとおしくなって欲しいというものだ。
彼はいつも自分から自分の望みを言い出さない。深刻な検査を受けたことのない私が言うのは間違っているかもしれませんが、検査の結果が悪性だったら、それが何だというのだ。すぐ翌日に死ぬのですか。私は、もしそうであったとしても、拒否することが出来ないことは厳粛に受け止めようと思います。死がはっきりわかることはありがたいことではないでしょうか。それならそれで、自分が何をするのか決めることができます。
彼は「私が負担にならない道が、私が最後に取るべき道だという結論に達しました」と言います。本当にそれでよいと考えるなら、今度一切、大切な女友だちとの連絡を絶つことでしょう。ブログで女々しく、「ボクはあなたを忘れない」などと書かないことです。ひたすら奥さんや娘さんやお孫さんのことだけを書き綴ることです。どうせ私たちはいつか死にます。死んでしまえば、すぐに忘れられてしまいます。私たちがたくさんの人の死を忘れてきたように。それが人の世界、無常の世界でしょう。
自分がどう生きるか、生きているか、それに尽きるようですが、それも実は誠にあいまいだと私は思います。昨夜のミュージカルではありませんが、「生きている」ことでいいような気がしています。私が「生きている」ことは恥の上塗りばかりですが、それも死んでしまえばおしまいです。死んだ方が勝ちというものです。これだけけしかけても、きっと彼は変らないでしょうね。それが生きるということなのでしょう。
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