友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

卑猥、耽美、背教あるいは絶望、退廃

2012年08月31日 20時05分52秒 | Weblog

 1867年(日本はまだ江戸末期)の今日、フランスの詩人ボードレールはパリの病院で死んだ。46年の短い生涯だった。私がボードレールを知ったのは多分、高校生の頃だ。文芸部の友だちに頼まれて、詩や散文を寄せていたが、その文芸部の友だちの中に、「反逆」「退廃」に憧れる者がいた。そういう雰囲気に酔う時期だった。だからボードレールやランボーは、ちょっと気取りたがる連中の偶像になっていた。しかし、ボードレールやランボーの詩を読んだことがあるのかとなると定かではない。

 ボードレールの父親は第1帝政下(ナポレオンによる独裁)で上院議員の議長を務めるほどの人物であったが、芸術に関心があり、芸術家たちとの交流もあった。妻を亡くした彼は62歳の時、28歳の女性と結婚し、ボードレールが生まれた。しかし、ボードレールが6歳の時に父親は亡くなり、母親は将来有望な軍人と再婚した。父と母の年齢の差、母の再婚などがボードレールの鬱屈とした感情を育むことになったと後の評論家は言うが、何らかの影響はあったことは確かだろう。

 17歳か18歳までのボードレールは、学校の成績はよく、義父の期待に叶うものだったそうだが、その反面で、人付き合いが悪く、教師とも学友ともケンカばかりしていたとある。彼は、「将来は法王、それも武力のある法王になりたい」と語っていたそうだから、鬱屈したものがある。それからどうした訳か、ある説では教師と問題を起こして、退学処分を受ける。けれども卒業資格試験に合格してパリ大学の法学部に籍を置いたというから優秀な人である。

 20歳になって、亡くなった実父の遺産を引き継ぐことになり、働かなくても食べていける財産が転がり込む。それは、彼のダンディイズムというか、退廃とか狂気とか、成長する資本主義社会を先取りしたような「詩」が生まれる土壌になる。しかし、年表を見ると、23歳の時には禁治産者として弁護士の監視下に置かれてしまい、物書きで生活することになる。ボードレールを有名にした詩集『悪の華』の大半は、23歳までに書かれたものと言われているが、彼が文壇に登場するのは美術評論家としてであった。

 36歳の時に、詩集『悪の華』が出版されるが、治安裁判で6編を削除され、罰金を科せられる。この年、義父が没し、母親とよりが戻り、以来たびたび母親に金を無心しているから困った人だ。若い頃は「黒のビーナス」と呼ばれた黒人混血女、ジャンヌ・デュバルとの愛欲の日々を送り、彼女を源泉にして20編ほどの詩を書いたり、中央共和派協会に入会し、2月革命には赤いネクタイを巻いて参加した画家クールベと親交を結ぶなど、政治にも関わっている。

 40代になって梅毒による体調不良に悩み、最後は寺院で見物中によろめいて倒れ、失語症のままパリの病院で亡くなった。彼の死後、全集の出版が企画され、2年後に最初の2巻が出版された。初版は数日のうちに売り切れたという。生前は評価しなかった文壇が死後になって賞賛するという皮肉。卑猥、耽美、背教あるいは絶望や退廃といったものが受け入れられる時代がようやく追い付いてきたのだった。

 明日は誕生日会のためブログは休みます。

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