友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

子どもの自殺と殺人

2017年02月17日 17時06分18秒 | Weblog

 最近、悲惨な事件が続いている。一宮市の中学3年生が飛び降り自殺したり、四日市市の高校3年生が母親を殺害したり、どうしてこんなに命が粗末にされてしまうか。私も教師だったので、「先生の言葉の重さ」は感じる。教師自身は何気なく口にした言葉でも、言われた本人は傷つく場合がいくらもある。教師も人間だから絶対ではない、間違いもする。子どもたちがそう受け止めてくれればいが、子どもは意外に大人を絶対視している。

 だから、大人である教師の方が、自分のやっていることが正しいかと検証しなくてはならないのに、相手は子どもだからと上から目線で見てしまう。自殺した中学生の担任は「絶対いじめていない」と断言しているが、きっと深く後悔しているだろう。もし、後悔していないなら教師としては失格だ。自殺した子どもは担任に「全てを否定された」と書いているのは事実だから、どういうことなのか考える必要があるし、それが出来ないようなら教師をやめた方がいい。

 四日市市の高校生は大学受験のことで母親から何度も小言を聞かされていたようだ。母親はきっと、「あなたのために言っている」つもりだろうが、半分はそうでも半分は見栄やエゴ、つまりは自分のためだ。同級生から「真面目で大人しい子」と言われている高校生が、母親の小言ごときにどうして殺意まで抱いてしまったのだろう。真実はわからないが、子どもを思いやる自分の気持ちがどういうものか、見つめられる母親だったらこうした惨事には至らなかっただろう。

 思いを伝えることは難しいけれど、伝えなければ遠のくばかりだ。求め過ぎれば傷つけることにもなりかねないが、求めなければ自分が虚しくなるだろう。人の世は悲しみの連続なのかも知れないが、喜びもまた人の世にしか生まれない。不満や文句を言う前に、「愛しているよ」と伝える心の余裕が欲しい。キリストが「受けるより与えるほうが幸福である」と言ったけれど、そんな風にみんなが思うならもう少し優しい世の中になるだろうに。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

演劇と映画と‥

2017年02月16日 17時39分51秒 | Weblog

 名演小劇場で昔は演劇も行われたが、今は文芸映画の上映に限られている。演劇をするには狭すぎるのかも知れない。名古屋市は3百人から5百人ほどを収容できる文化小劇場が各区にあり、演劇や音楽の発表に適している。使用料がいくらかかるかも知らずに言うのは無責任だが、1千人、2千人収容できる会館よりもこの施設は使いやすいように思う。

 50年くらい前、高校の教員だった時、生徒の中に名演の事務所に出入りしている子がいて、私も誘われて演劇を観に行っていた。映画好きの私には、大きな会館で行う演劇は観客と舞台の間が空き過ぎていて、もの足りなく感じることが多かった。それでも中には演技者の力量や舞台の主題で引き込まれることも度々あり、舞台の力を感じる時があった。

 教員を辞めてからはしばらく演劇を観ることがなかったが、地域新聞を発行するようになって、地域で演劇をしている人に見込まれて演劇上演の実行委員長を引き受けたりしたことから、名演の会員にもなった。私を名演に誘ってくれた人が名演を辞めるまでは続けるつもりでいたが、毎月払う会費に比べ、上演される演劇が見応えに欠ける気が増してきていた。

 事務所にも出入りさせてもらったけれど、会の古参の人たちのように、「民主的な演劇を育てていく」気持ちが欠けていた。そんなスローガンは時代遅れとさえ思っていた。民主的な演劇って何なの?反戦とか政治批判があれば民主的なの?学生演劇でも面白いものはあるし、商業演劇にも時代を鋭く描く作品もある。名演の役割はもう終わったと思うのに、それは言えなかったから、自分が去るより他なかった。

 何がいい演劇なのか、何がいい映画なのか、何がいい音楽なのか、何がいい絵画なのか。鑑賞する人が決めればいいし、時代とともにその価値も変わっていく。だからこそ人々が敏感な感覚を失わないことだと思う。与えられたり押し付けられたりするものではなく、自らが判断できる感覚こそが大切だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団・新幹線『蒼の乱』

2017年02月15日 17時52分22秒 | Weblog

 平安京が始まり貴族たちの優雅な生活はますます華やかになっていった。それは農民たちの食うや食わずの生活に支えられたものだった。935年に関東で平将門の乱が、続いて瀬戸内海で藤原純友の乱が起きた。呼応するように起きた乱だったが、通信手段のない平安時代にそんな謀は出来ないだろうと思っていたが、私と同じ様に2つの乱を結び付けて考えるシナリオ作家がいた。

 名演小劇場で上映された劇団・新感線の『蒼の乱』は藤原純友と平将門がともに挙兵し、朝廷を東西から挟み撃ちにして「新しい国」をつくろうというものだった。ここには裏があり、関東で兵をあげた将門を支援した蝦夷の王は、実は太政大臣の弟で、天下を取るための策略だった。どんでん返しは作者の中島かずきの得意のところで、新感線の芝居を観てきてよく分かった。

 主演は将門の妻役の天海祐希さんと将門役の松山ケンイチさん、脇役に早乙女太一さんや平幹二朗さんが、さらにいつもながら脇役ばかりだが存在感のある高田聖子さんもいて、あっという間の3時間だった。新感線の芝居は歌って踊って、見せ場の決闘シーンやチャンバラが何度も出てくるので、ついその迫力に目が向いてテーマ性がぼけてしまうが、『蒼の乱』は将門の苦悩がよく分かった。

 将門は関東に「新しい国」をつくろうとするが、朝廷からの討伐軍と戦う日々が続き、農民たちの離反が生まれる。農民も彼らの土地も愛する妻さえも守ることが出来ないことを知り、最後に自分の首を差し出すことで愛する妻だけは守る決心をする。将門の妻も、夫が愛した関東の平野を守るために戦うが、結局は「新しい国」をつくることが出来ない。侍も農民も蝦夷も異国民も差別のない「新しい国」は次の時代に期待するしかない。

 この「新しい国」つくりは現代にも通じる。どんなに戦いに優れた武将がいても、どんなに人々に人気のある政治家がいても、それだけでは「新しい国」はつくれない。何が必要なのだろう、どうすれば理想に向かって進むことが出来るのだろう。将門の乱から1100年近く経てもまだ何も変わっていないのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョコの詰め合わせ

2017年02月14日 17時09分52秒 | Weblog

 バレンタインにチョコをプレゼントする習慣はいつ頃から始まったのだろう。私は昭和42年に高校の教員になり10年間勤めたけど、女生徒や女性教員からチョコをもらった記憶がない。ただ、先輩の先生から豪華なチョコの詰め合わせが家に送られてきたことがある。先輩の先生から「お世話になった」と文もあったが、私はプレゼントされるほどのことは何もしていなかった。

 たまたま、私は建築科の生徒に絵を教える授業を受け持っていた。我が家が材木屋で建築には関心があったが、数学が苦手だったので建築家にはなれないと諦めていた。それでも間取りのことを考えるのは好きで、建築科に通うのは楽しみだった。建築科の教官室にはいろいろと興味のある雑誌もあり、建築の話を聞くことも出来た。私にチョコを送ってくれた先輩の先生は私の倍くらい、40代半ばから50代初めだったと思う。

 先生は学校には来ていたけれど授業することはなく、教科に中で孤立していた。今でいうウツ病だったのだろう。そんなことを知らない私は、先生に家造りについて話し、教えてもらっていた。先生が建築科の中で厄介者扱いされているとは感じていたが、私も職員会議で生徒指導部に対して平気で質問する困った奴だったから、まあ同じような者だった。知識も豊かで性格も温厚だったから年齢順なら当然、教科主任になっても良いくらいだった。

 教科の中で主任を選ぶ習慣はなく、上から命じられる以上仕方ない現実だった。そうした上下関係がありながら、職員会議は新任も古参も平等とばかり、私は他の新任教師と共に発言をしていた。工業高校には教科ごとに助手がいるが、身分も不安定でしかも他の教科の助手とのつながりもなかったので、職場に青年会を作り、親睦のためにハイキングなどを計画した。組合の青年部長ではない工業科の教員の呼びかけだったから、工業科の先生たちも許してくれたのかも知れない。

 チョコの豪華な箱詰めをもらったのはこの時限りだった。あの先生はあれからどうされたのだろう。おっと、仙台にいる次女からチョコが届いた。娘たちふたりにありがとう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍首相とトランプ大統領

2017年02月13日 17時30分27秒 | Weblog

 風はないが空気が冷たい。このところ寒い日が続いている。西日本では大雪が続き、大きな被害が出ている。明日はバレンタイン。長女からもらった「東京でしか売ってない」というチョコクッキーを、コーヒーを飲みながらいただく。建国記念の日の前後はいつも寒波に襲われるような気がする。それでもルーフバルコニーに並べたチューリップの鉢を見ると青い芽が出てきている。

 テレビは安倍首相とトランプ大統領の熱々ぶりを何度も放映している。入国禁止の大統領令に対する裁判所の判断でトランプ大統領は窮地にあり、安倍首相との対談やゴルフどころではないだろうと日本のマスコミは評論していたが、トランプ大統領にとってはありがたい機会だった。各国の首脳がトランプ大統領を非難するなかで、こんなにも仲良く抱き合う首相がいると国民にアピールできた。さらに北朝鮮のミサイル発射で、日米の防衛力強化が揺るぎないと見せつけることにもなった。

 安倍首相もトランプ大統領も前しか見ない楽天家なのだろう。私の井戸掘り仲間にも2タイプがいる。井戸掘りを始めたばかりなのにすぐ、「ああ、ダメだ」と言い出す。「まだ始めたばかりなのにそんなことは言わないで。みんなのやる気がなくなるよ」と止めることになる。反対に、「水が出そうだ」と何の根拠もなく言う人もいる。根拠がないだけに虚しい。希望を持つことは大事なことで、悲観するよりいいのかも知れないが、気分だけでは「罪」とも言える。

 心配性な人はどうしてなのか、ますます心配の種を作ってしまう。楽天的な人は「いいぞ、いいぞ」と煽り立てる。「どうしたら、どうなる」と、みんなで考えていかないと、結局火の粉は自分たちに降りかかってくる。悲観的な人は「やっぱり」とさらに落ち込むが、楽天的な人はもうその時は逃げ出して居ない。慎重に順序立てて、自ら考え、力を尽くす。そういうクセを身に付けていかなくてはならない。他人任せにしておいて文句を言うのは大人じゃーない。バレンタインチョコはまだ残っているのかな?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご近所付き合い

2017年02月12日 16時11分59秒 | Weblog

 「食事もとっていないみたいなので、『何か持って行こうか?』って言っても、頑固に『いらない』と拒否されるんだけど、どうしよう」と電話をいただいた。話を聞くと、体調が悪く家にこもりがちなので、近くの喫茶店に誘ったのだが、「身体の具合が悪い」と言われ、話しているうちに食事をしていないことが分かったから申し出たが、断られたということだった。

 彼女の性格から察すると、人の世話にはなりたくないという気持ちが強そうだ。今は息子さんと暮らしているし、好意だからと無理やりしても友情までこじれてしまうかも知れない。近くを通る機会もあるので「様子を見ましょう」と返事をした。家庭のことまではよく知らないが、長い間ひとり暮らしだったが、息子さんが家を建ててくれたので「一緒に住むことになった」と以前、嬉しそうに話してくれた。

 私が住むマンションでも高齢化は着実に進んでいる。入居した頃は、夏休みや冬休みになると駐車場はガラ空きだったのに、今では平日でも多くの車が駐車したままで、夏休みや冬休みは子どもたちが帰って来るから駐車場が足りなくて困っている。高齢者夫婦の老々介護も見かけるし、高齢者のひとり暮らしも目立つようになった。

 自治会では昔から「あいさつ運動」を推進してきた。お互いを知ることこそトラブルを防ぎ、いざという時に助け合うことが出来ると考えたからだ。しかし今、「あいさつをしないように」と決めているマンションがあると聞く。理由は「子どもが危ない目に遭わないため」らしいが、逆な気がしてならない。ノロウィルス対策から餅つきを止めた地域もあるが、地域の親善がこんな風に疎かになっていくことの方が怖い。

 人口は減少し経済は減速するのは確実である。だからこそ隣近所のつながりが大事だ。トランプ大統領のような豪邸でなくてもいい。みんながそこそこ幸せに暮らしていける社会は、小さな地域から創られていくような気がする。「あんな大金持ちが貧乏人のために何かしてくれるわけがない」と言う人もいるが、トランプ大統領が支持されるのは大金持ちだからだ。まだまだ人々は「貧しくっても平和の方がいい」と考えないから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい顔、顔‥

2017年02月11日 17時05分27秒 | Weblog

 建物に大きな変化はなかったのに、すっかり変わってしまっていた。来年いっぱいで閉鎖されるのだから当然なのだろうが、各実習室は雑然としていた。改修工事が行われ、部屋の形も変わっていたし、実習室の使い方も私がいた頃とは違っていた。140人もいるとなかなか居場所がない。3・4歳の子連れの若い人が多い。おそらく私は上から数えて2番か3番というところだろう。教員で参加しているのは3人で、しかも私より後輩で一緒に勤めたことがない。

 私が実習室を眺めていると髭を生やした若い人が近づいてきて、「何年の卒業ですか?」と聞いてきた。「えー、卒業生ではなくて、ここに勤めていました」と答える。「失礼しました。何を教えてみえたのですか?」。そんな話から、私が勤めていた頃の話をするが嚙み合わない。彼はこの高校の建築科を卒業し、美術大へ進学して彫刻を学び、今は木工を教えていると言う。「フッションにも興味がある」と言うからユニーク先生だ。

 職員室を見ても、私がいた頃とは様変わりしていた。教科主任の先生は今年が定年だというが、ずいぶん若く見える。大部屋へ戻ると、「アレ、先生ですよね」と言ってくれる人が何人かいた。「先生の家に、酒持って行ったことがある」と言う人まで現れたが覚えがない。担任をしたクラスは家庭環境まで覚えているのに、そうでない学年の子は顔を見てもなかなか思い出せない。申し訳ないことをしてしまった。償いたいので、これからでも遊びに来て欲しい。

 卒業生たちは3年間同じクラスで過ごしてきたから、仲間同士のつながりも深いし思い出も数多く、何処を眺めても懐かしいようだ。私はこの学校に7年在籍したけれど、彼らのように懐かしい気持ちにはなれなくて、むしろ学年ごとの生徒たちの特長というか個性が浮かんでくる。昨年、クラス会を開いてくれた学年のふたりと、その上の学年の人の4人で昼食を共にした。彼らが卒業して45年余り、やっぱり高校生の頃の道具の使い方や学校の様子に話が戻ってしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は楽しみ

2017年02月10日 17時24分09秒 | Weblog

 明日は私が教員になって初めて勤めた学校に出かける。愛知県で一番伝統のある工業高校だが、時代が大きく変わったのか、後発の工業高校と一つになり廃校となる。そのため、最後の学校の様子を見に来て欲しいと手紙をもらった。135名の卒業生が参加するとあったが、私が知っているのは上の方の10人ほどだ。22歳で赴任したからちょうど50年となり、あの子たちも還暦を過ぎてしまった。

 この学校の先生たちは伝統校に勤めているという自負が強くあり、専門教科は生徒たちが自主的に実習していた。先生はただ監督するというか、眺めているだけだった。先生の中には開始と終了の時はいるけれど、その間の時間は教官室で自分の勉強をしていることもあった。授業が無ければ学校を抜け出していく先生がいたくらいだったから、雰囲気は大学並みだった。私は年齢が生徒と近いこともあり、生徒と一緒に実習するのが好きだった。

 あの頃は何もかも手描きだった。しばらくして、レタリングシートが売りに出されたが、それでも文字を手描きさせていた。美術科のように石膏デッサンもさせたし、油絵も描かせた。今ではすっかりコンピュータで制作するようなので、変化の速さにビックリする。余り絵はうまくなかったが、頭のいい女の子がいて、卒業してしばらくするとタイプライターのように文字が描ける機械を何台も揃えて社長になっていた。ところがすぐにコンピュータに変わってしまい、倒産してしまった。

 工業デザインを専攻した生徒の憧れはトヨタで、優秀な成績の子が就職していった。中にはどうしてもトヨタに行きたい子もいて、工業デザインの先生に無理やり枠に入れてもらった。それでもトヨタでは異端児で、間もなく独立してデザイン事務所を構え、ホイールのデザインで名を成した。私が勤めていた頃はなかなか個性的な人材が多く、私よりも優れた才能を持っていたので、「花を咲かせてやりたい」の一念で子どもたちと接してきた。明日は何人に会えるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育ての意味

2017年02月09日 17時34分34秒 | Weblog

 スーパーマーケットの中にあるコーヒー店はセルフで、店員はレジにしかいない。ここを自分の仕事部屋にしている人がいる。話を聞くと、子どもの頃、自分の部屋があったにも関わらず「台所のテーブルで勉強していた」と言う。「みんながワイワイ言っているのを聞きながらするのが好きだった」と言い、「意味のない音が流れていた方が集中できるみたい」と説明する。本を読んでいる時も「音楽を流している」と言う。

 子どもの頃のクセは老人になっても変わらない。子育てはやはり後々まで影響する。子どもの頃に興味を持ったことをいつまでも追い求める人もいる。それで偉大な学者になった人もいるが、逆に犯罪者になった人もいる。神戸の少年Aによる「酒鬼薔薇事件」、Aは小学校の時に猫を解剖している。母親が我が子の異変にもう少し早く気が付いていたら、両親がAにもっと真剣に向き合っていたら、事件は起こさなかったかも知れない。

 子どもは大人が思っているより善悪の判断が出来ない。出来ないというより〝しない“ と思う。何が良くて何が悪いか、親が口うるさく言わなくなったから余計そうなった。高齢の女性を殺害した名古屋大学の元女子大生は高校生の時、同級生二人に劇物の硫酸タリウムを飲ませ、その症状を観察ノートに記録している。妹へのメールには「未成年のうちに絶対殺ってやる」とか「あははは。人の人生狂わすのは面白い」と書いている。

 彼女が高校生になるもっと前、異常な兆候はあったはずだ。どんな家庭で、どんな育て方だったのだろう。子どもを自由に伸び伸びと育てることは大切だが、子どもの変化に無頓着であってはならない。小学校に入った頃から子どもは家庭から離れて世界を広げていく。それは大人へ成長していく大切な過程である。この時こそ親は子に、善悪や美醜を教える必要がある。

 今日は国府宮のはだか祭り。雨の中、男たちは出かけていった。厄を一身に受けて、払ってもらう大事な祭りだ。風邪など引かないようにと祈りたい。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フォークソングが変わった

2017年02月08日 17時58分02秒 | Weblog

 『常識が通用しない』と題した2月3日のブログに、天邪鬼さんが「『人間なんてララララーララ』変節を繰り返しながら生きているもの。正解などありはしません。それよりも今日をどう生きるかの方が重要。何と言われようとも生きていることに意義があるのでしょう。人はいつか死んでいくものだから」とコメントをくれた。その「人間なんてララララーララ」は、どこかで見た覚えがある気がした。

 吉田拓郎の『人間なんて』という歌の出だしだ。1971年の第3回中津川フォークジャンボリーで拓郎が歌ったことで知られている。歌詞を見ると、「何かがほしいオイラ それが何だかわからない‥‥それは誰にも分からない」と、それまでの社会批判から内面に向かっている。拓郎の前は岡林信康や高石ともやが歌っていた。岡林の『山谷ブルース』『友よ』、高石の『受験生ブルース』は1968年に発表され、新宿広場を占拠した学生たちが歌っていた。

 高石は1941年生まれだが、岡林と拓郎は1946年生まれ。高石と岡林はクリスチャン。拓郎が通っていた広島の大学はバリケード封鎖などという過激な行動はなかったことが歌詞からも分かる。拓郎の『結婚しようよ』にはもう内面すら見ていない。私は1957年ごろから1968年まで、テレビのない生活だった。ラジオもなかったけれど、下宿の隣の部屋や街角でフォークソングを耳にする機会があった。

 『イムジン河』『フランシーヌの場合』『サトウキビ畑』などとてもきれいな曲だと思った。『神田川』が歌われたのは1973年で、すでに学生たちの街頭闘争は終焉していたと思う。上村一夫のマンガ『同棲時代』と重なって、感傷的で抒情的な時代を象徴するようだった。天邪鬼さんが言うように、「変節を繰り返しながら生きているもの」なのだ。歌は多くの人々の心に入り込む。今はメッセージ性の強い歌を聞くことがなくなった。けれど、歌詞のない歌はないから、いつかまた心を摑まえる歌が生まれるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする