【安倍政権を本気で倒す国民運動の興し方】「アベ政治をなんとかしたいね!」という方は必見。

対米従属からの脱出は国民の意識改革から。戦略的市民革命の方法を提案します。政治を語らずに、選挙で勝つ「視覚」に訴えた戦略

2016年春に安倍政権を倒すシナリオ

2015-11-13 05:32:47 | 日記
平和な国で安心して暮らせるために、安倍総理の暴走を止めよう!

【福島原発問題収束が喫緊の課題】

①子供たちが幸せに生きられる社会を作るために、国作りは教育から!

②そのために、経済優先で国興しをしてきた自民党から政権を取り、
きちんと『自分の頭で考えて動ける自立した人を育成する』教育立国。

③政権交代を実現させるためには、国民が野党再編を主導。
つまり、国民が中心となって、共産党を含めた野党の連合体を立ち上げる。

④そして、次期総理大臣を国民が選べるよう、「新党」を 国民自らの手で立ち上げる。

1、政治団体の届け出をします。

2、5名ご賛同下さる国会議員が集まったところで、政党設立届け。

3、新党の名称および綱領・政策・公約などは、みんなで決める。

公約のおおまかなところは、早期の安倍内閣粉砕をめざして、来春に、衆議院解散総選挙ができるよう、

ひとまず、

①安保法制廃止

②消費税減税

③脱原発

④憲法改悪阻止
の四項目に賛同する国会議員をスカウトする。





戦争法案を廃案にしよう!学生もついに立ち上がりました。国会を三重に囲もう!安倍内閣も終わりです。

2015-07-03 05:55:36 | 日記
戦争法案を廃案にしましょう。
学生もついに立ち上がりました。
国会を三重に囲みましょう。
安倍内閣も岸内閣同様終わりです。

http://critic20.exblog.jp/24273049


以下、
エキサイトブログ 「世に倦む日日」より転載



岸内閣を倒した60年安保 - 突如として起きた市民の大爆発(丸山真男)
2015-06-17 23:30 Trackback(0) コメント(14)
1960年6月15日、いわゆる60年安保のとき、国会周辺を埋めたデモ隊の数は、主催者発表で33万人、警視庁発表で13万人だったとされている。言うまでもなく、史上空前の規模の市民の抗議行動であり、戦後における最大の反政府運動である。死者1名、重傷者43名、逮捕者182名を出した激しい衝突の4日後、6月19日に安保条約は自然成立となったが、予定していたアイゼンハワーの来日は延期となり、岸信介は混乱の責任をとる形で6月23日に退陣を表明した。このとき、朝日の世論調査では岸内閣の支持率は12%まで落ち込み、NHKの世論調査でも17%にまで落ちている。その1ヶ月前の5月19日深夜、右翼と警官隊を導入しての強行採決で安保承認に及んだとき、岸信介は、1ヶ月後に退陣する羽目になるとは予想していない。6月15日と6月18日、数十万の市民が国会を取り巻いて騒然とする中、岸信介は陸上自衛隊による武力鎮圧を要請する。実現していれば、戦後初めての自衛隊による治安維持出動となっていたが、国家公安委員長と防衛庁長官に反対されて頓挫した。ここで岸信介の命運が尽き、内閣総辞職の決断となる。岸信介の退陣が、アイク来日の中止を契機とする政治であったことは間違いない。つまり、米国政府に見放されたのだ。アイクが6月19日の来日を断念したのは、33万人のデモ隊に恐れをなしたからであり、来日強行によって暴動と内乱に発展する事態を避けたからである。

その少し前、6月10日には、アイク夫妻訪日の準備調整のために羽田に飛んできたハガチーが、空港から車に乗って出た途端、2万人のデモ隊に路上で取り囲まれ、米海兵隊のヘリで脱出して立川基地から逃げ帰る騒動が起きていた。この事件についてのハガチーからの直接報告と、6月15日の空前のデモと流血があり、アイゼンハワーが情勢を憂慮して来日を取りやめたことは十分に窺える。おそらく、岸信介の進退も何らか米政府の判断と意向が関わっていたのだろう。そのちょうど2ヶ月前、1960年4月18日、李承晩の退陣を要求する大規模なデモがソウルで発生、翌19日にはデモが暴動化して戒厳令が敷かれ、4月27日には李承晩が退陣表明してハワイに亡命するという政変が韓国で起きていた。死者186名。韓国では「4月革命」と呼ばれている。李承晩の退陣に米国の関与を探るのはたやすい。東西冷戦が頂点にあった時期、自由と民主主義の看板を掲げて共産主義陣営と対峙する米国は、極東のテリトリーを安んじるべく慎重な舵取りで事態に対処しなくてはならなかった。要するに、岸信介は米国に引導を渡されたのであり、「4月革命」の日本版を恐れ、極東全体の動揺を恐れた米国が、素早く手を打って混乱の原因を除去したのだ。もし、右翼の岸信介を切除しなければ、本当に自衛隊に治安出動させ、数千人の流血となり、憲法は停止、国内は内乱状態に至っただろう。

手元に講談社が1991年に刊行した『日本全史』があるので、1960年の年表記事から6月15日の激動の状況を紹介しよう。「安保条約反対を叫ぶ全学連主流派が国会に乱入、警官隊と激しく衝突し、東京大学文学部国史学科の学生樺美智子さん(22)が警官隊との衝突のなかで殺された。この日の午前中、総評・中立系労組111組合590万人が参加した第2波実力行使が行われたが、大きな混乱は起こらなかった。ところが、夕方になって事態は急展開を見せる。午後5時20分ごろ、参議院第2通用門付近にいた全学連反主流派と労組、新劇人などのデモ隊に対して、右翼の児玉誉士夫率いる維新行動隊が突入したのである。行動隊は女性参加者の多いデモ隊を狙って襲いかかった。しかし、警官隊は右翼の行動を静観した。一方、この日約8000人を動員して国会へのデモを行っていた全学連主流派は、右翼による暴行事件発生の知らせを国会南通用門付近で聞き、5時50分、国会への突入を開始した。警備に当たっていた警官隊は放水車2台で学生に応戦し、約20分に及ぶ攻防戦の結果、一度は学生を構外に追い出した。しかし再び衝突が起こり、7時20分、約4000人が国会内に突入した。学生は中庭を占拠し、警察に対する抗議集会を開くなど気勢を上げた。しかし、午後10時7分、実力排除を開始した警官隊は、逃げる学生を後ろから警棒で乱打し、わずか10分ほどで全員を外に押し出した」。

「降りしきる雨で足をとられる負傷者を手当たり次第に捕まえ、救急車で応急手当をしたのち、護送車に送って逮捕していった。門外に押し出されたデモ隊には再突入の力はもはやなく、一部が装甲車数台に放火しようとしたほかは、ただ国会を取り囲むのみだった。ところが16日未明、警官隊はさらに催涙弾を発射し、警棒を持ってこれらの人々に襲いかかったのである。このときの様子は、『警官隊によっていま、・・・首を掴まれております。いま実況放送中でありますが、警官隊が私の顔を殴りました』というラジオ関東の島硯弥アナウンサーの叫びによって生々しく伝えられる。(略)樺美智子さんが死亡したのは7時10分か15分ごろと推定される。家族の希望で解剖を行った医師は、『眼にひどいうっ血があった。これは首を強くしめつけられたため。ひどいすい臓出血は上から踏みつけられたもの』と述べ、警官隊の暴行による死亡を示唆した」(P.1119)。5月19日夜の強行採決のとき、自民党は議員秘書の名義を入れ替え、総勢600名の「秘書団」を暴力団員で編成し、本会議場前でスクラムを組んで採決に抵抗していた社会党議員団を警官隊と共に強制排除するのだが、その件が小熊英二の『民主と愛国』に生々しく登場する(P.507)。右翼・暴力団の動員を差配したのは岸信介で、満州で一緒に阿片を売り、巣鴨で一緒に臭い飯を食った盟友のために獅子奮迅の働きをしたのは児玉誉士夫だった。

60年安保を回顧して、死の間際の1995年、丸山真男は「世界」の誌面インタビューでこう語っている。「ふつう、大衆運動が盛り上がっていった頂点に60年安保があったというふうに考えられがちですけれど、そうではない。突如としてあの大爆発になった。(略)5月19日の強行採決によって突然大爆発が起きた。(略)あの強行採決は、僕にとってももちろん予測外のことで、びっくりしました。(略)6月15日には、全学連のアイク反対デモがあって、あの時は大勢の学生が行った。実際は講義はずっとやっていたんですけれども、みんなデモに行っちゃうものですから、出席する学生が激減しました。だから(療養中と外遊のときを除くと)60年だけは、僕の演習がないんです。何しろ全学連主導ですから、警察官との衝突など、どういう事態になるかわからないというので、教官の中で分担を決めて、僕は留守部隊になったのです。だから当日は国会前に行っていない。その時は石井照久学部長がいましたから、石井さんとずいぶんいろいろな突っ込んだ話をしました。たとえば自衛隊が出てきたらどうするかとか、緊急事態というので、岸内閣ではどういう措置をするかわからない、その時どうするかというようなことを話しました。そして樺美智子さんが死んだのです。その翌日、樺さんの死亡のショックから、18番教室で全学の教官集会があって、当然、茅(誠司総長)さんが出てきました」。

「今回の強行採決以来、学生に対してもっぱら軽挙妄動を戒めるということしか言わなかったのがこういう事態を招いたということと、樺さんが亡くなった責任をどうとるのかと、福武直君その他が痛烈に茅さんを弾劾しました。翌日ですから、ちょっと昂奮ぎみで、そのときは西洋史の堀米庸三さんも、文学部を代表して樺さんを悼み、かつかなり激しい機動隊批判をやったように憶えています。茅さんは終始受け身で、申し訳なかった、というようなことばかり言っていました。しかし、まだ運動は続いているわけです。なにしろ、国会の周辺は毎日毎日何十万という市民でしょう。いま、ああいう事態というのは、ちょっと考えられないですね。正直言って、よくあれだけ、どこからも動員されないで、自然に集まったものだと思います」(第15巻 P.337-340)。市民のデモによって時の政権が打倒された例というのは、この国では戦後70年の歴史で一度きりで、1960年の岸内閣のときだけだ。今、誰もがひそかに思いをめぐらせ、声に出さぬまま息を詰めて期待しているのは、今回の安保法制への反対運動が、果たして55年前のような爆発的なデモに発展するかということであり、願わくばその再来となり、安倍晋三が退陣に追い込まれることだろう。そうした市民革命の奇跡が起きないと、安保法案が廃案になるドラマはない。数十万の市民が国会と官邸を埋め、マスコミも法案撤回を求め、与党が割れ、米国が譲歩する進行になれば、安倍晋三の退陣と廃案が一挙に実現する。

60年安保の歴史というのは、総じてこの30年、この国ではネガティブに語られることが多く、積極的な光が当てられて正面から説明されるということがなかった。そのイメージは、まさに「戦後民主主義」が蒙った運命と同じで、右からも左からも叩かれ、貶められ、ダサイという侮蔑と否定の言葉で決めつけられ、矮小化されるに任されていた感がある。私はそのことをとても怪訝に思い、不思議にかつ不愉快に思う。フランス人がフランス革命をそのように言うだろうか。米国人が独立革命をそのように語ることがあるだろうか。どう考えても、60年安保は日本の堂々たる市民革命であり、その後にこの国に生まれ育った者に大きな恩恵を与えている。われわれは恩恵に気づくのがあまりに遅すぎたと、私は率直にそう思う。当時の日本人は偉大で、今よりも市民としてずっと賢明で、素朴で純粋で、権利を掴むためには闘争が必要であること、民主主義とは運動であることを理解していた。安保法案が成り、戦争が始まり、この国は滅び、自分も命を落とすことになるかもしれない。一人の個人として法案反対の運動に加わるとき、その動機があるとすれば、正直なところ、それは、子や孫のためとか、日本の将来のためとか、未来への責任を果たすためとかいうものではない。秘密保護法案のとき、デモに出るときに自分に言い聞かせたような、デモに出ておかないと後悔するからとか、そんな気持ちや言い草も全くない。ニヒリズムかもしれないが、希望や責任が動機づけにならない。

動機づけになるのは、過去の人々に感謝をささげ、礼を返すということだけである。私の場合はそうだ。本当にありがたかったと思う。岸内閣を倒してくれてありがとう。

以上、世に倦む日日より転載。


はじめまして。

2015-05-08 09:20:44 | 日記
いつの時代も、どこの国でも、民は戦争の犠牲になってきました。韓流ドラマが好きな私は、どうして、国家間で、戦争が起きるのか、どうして政治がよくならないのか、その理由の多くを学びました。中国や韓国・北朝鮮の民に比べたら、日本はまだまだ幸せな国でした。