コメント
Unknown
(
山上
)
2012-09-07 19:11:38
私の親が戦前から宝塚に住んでおり、隣が予科練の方々の宿泊をされていた旅館で 当時 親と叔母と二歳児の所に遊びに来られたとの話を幼い頃に聞いた記憶がありました。
しかし、悲惨な出来事だけに あまり多くは語りませんでした。 当時の事を取材を要請されても拒否をされていたようです。
私は子供頃を色々と思い出す中で 予科練の事が気になってネットを見ると余りにも酷いことでショックを受けて 前々日に阿那賀の墓地と春日寺に伺いました。
墓石に刻まれたのを見ると最年少で11歳と刻まれたのを見ると……
改めて嘆かわしい想いを致しました。
来年の8月2日の命日には春日寺を御参りしたいと思っております。
追記
春日寺に伺った際に本堂にて爽やかな風を受けました。
また、お墓にても軽く優しい微風を感じましたね。
ありがとうございました。
(
みずえ
)
2012-09-07 22:11:50
山上様
書き込みありがとうございました。
>私の親が戦前から宝塚に住んでおり、隣が予科練の方々の宿泊をされていた旅館で…
何と言う偶然でしょうか?驚きました。
>私は子供頃を色々と思い出す中で 予科練の事が気になってネットを見ると余りにも
>酷いことでショックを受けて 前々日に阿那賀の墓地と春日寺に伺いました。
ありがとうございます。
さっそく、兄に山上様のことを連絡致しました。大変感謝しておりました。
>来年の8月2日の命日には春日寺を御参りしたいと思っております。
ありがとうございます。
山上様に伝わったことで、私がブログで書かせて頂いた甲斐がありました。
とても嬉しく存じます。なお、予科練の続きをあと2話ほど書きたいと思っております。
これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
Unknown
(
山上
)
2012-09-07 23:30:41
返信を頂き ありがとうございます。
親が宿泊先の隣に住んでいた縁で 少年達から親への手紙を託されて監視の目が厳しい中で親元に届けて 戦後に手紙を届けたご両親から亡くなられた事情を知ったと聞いておりましが.その私の親は昭和57年に末期ガンで他界を致しました。
私もあなた様と同様に宝塚海軍予科練の少年達の事を後世に伝えたい思いは強いです。
大変有難いご意見を。
(
みずえ
)
2012-09-08 11:00:36
山上様
書き込みありがとうございます。
>親が宿泊先の隣に住んでいた縁で 少年達から親への手紙を
>託されて監視の目が厳しい中で親元に届けて…
心優しいご両親に感謝致します。
>私もあなた様と同様に宝塚海軍予科練の少年達の事を後世に>伝えたい思いは強いです。
本当にありがとうございます。
ところで、山上様にお願いがあります。
このことをブログに書かせて下さいませ。
コメント欄は目立ちませんことと、大変有難いご意見ですので
ぜひ、新たにブログにUPさせて頂きたいと存じます。
ご了承下さいませ。
Unknown
(
山上
)
2012-09-08 13:35:53
みずえ様
了解しました。 また、何か出来る事が有れば 連絡を頂ければと思っております。
あなた様との連絡の方法はどのようにすれば よいのでしょうか ?
戦争と平和展
(
Y.Y
)
2012-09-15 09:54:09
淡路市浅野南にある北淡歴史民俗資料館にて9月30日までの期間で戦争と平和展を開催しております。
是非 御覧になられては如何でしょうか?
後世に語り継いで頂きたいと願っております
「戦争と平和展」
(
みずえ
)
2012-09-16 21:53:09
山上様
教えて頂いてありがとうございます。
山上様には、多くのことを教わり感謝しております。
「戦争と平和展」のこと、そしてその他のことをまとめて、又ブログに書きたいと思っております。いつもありがとうございます。
Unknown
(
Mr.YY
)
2012-09-21 08:03:52
秋の御彼岸ですね。
8月2日の法要は別にして何方が 御参りに行かれているのでしょうかね。 ふと、気がかりに……
「戦争と平和展」は、昨年の間違いでした。
(
みずえ
)
2012-09-23 20:00:12
【至急・ご連絡します。】
只今、Y.Yさまから下記の通り連絡がありましたので、至急お知ら申し上げます。
新聞にて案内されておりましたが、実際に行って見ると戦争と平和のタイトルの資料が
展示されておりませんでした。
それで、調べたところ、新聞社に貰った記事のコピーの日付けが薄れていて読み間違い
しており、2011年のものでした。大変 申し訳ありません。
もし ご覧になられて行かれた方にはなんとお詫びしていいのか…。
本当にすみません。
とのメールが、只今現地からありました。
皆さんに、よろしくお伝え下さいとの事ですので、よろしくお願い申し上げます。
私からも、お詫び申し上げます。 (ブログ管理者より)
謝罪
(
Y.Y
)
2012-09-24 06:37:18
みずえ様ならびにブログを御覧の方々へ
大変な御迷惑をおかけしてしまい。
申し訳ございませんでした。
すいません。
淡路沖に眠る英霊に思いを寄せて、
(
塩路千尋
)
2014-02-09 17:04:02
私も淡路島に旅行に出掛けたおりに国道から見える巨大な観音像を仰ぎ見た事が有りました。其の観音像が見下ろす沖合いには嘗て其の海に沈んだ宝塚海軍予科錬の若人達が眠って居られるのですね。彼等を慰霊する女神の如し観音像の存在を知り、少しでも彼等の霊が靖まらん事を祈りたいです。
ありがとうございます。感謝します。
(
みずえ
)
2014-02-09 20:52:46
塩路千尋様
この度は、心のこもったコメントをお寄せ頂き、厚く御礼申し上げます。私のブログが塩路様のお目に留まりましたことを、とても有り難く存じます。グログに書いた甲斐がありました。
>彼等を慰霊する女神の如し観音像の存在を知り、少しでも彼等の霊が靖まらん事を祈りたいです。
ありがとうございます。
来年は、満69年目となりますので、七十回忌を迎えます。
もう、当時の生き残りの少年達は年を取り、お参りに馳せ参じることの出来る人は、一番若かった兄を含め数人になってしまいました。
若い方を始め一人でも多くの方にどうかこのことを知って頂き、この辺りへ来られる時は、お参りいただけましたら本当に有り難く存じます。
コメントありがとうございました。
Unknown
(
Unknown
)
2014-02-09 22:45:32
塩路千尋様
もしかしたら、
>国道から見える巨大な観音像
と言われるのは、別物と思います。
こちらの観音像は、国道からは見えないと思うのです。
向かいは、海ですから。
「鎧崎桜ヶ丘英霊墓地」ですので、よろしくお願い申し上げます。
もちろん、その巨大な観音像の方も、見かけられたら合掌をお願い申し上げます。
宝塚予科練の彰忠碑
(
Kazuko Onizuka
)
2014-07-21 18:45:36
はじめまして、突然の書き込みお許し下さい。
7月19日、アナガホテルに宿泊した際に、現井植社長に案内されて、宝塚予科練のこと、空襲に遭い多数の若い命がこの海上で亡くなったことを知りました。
私はこのことを2014年の7月19日まで知りませんでした。きっと、私同様、多くの方々がこの“事実”を知らないと思います。事実は知るべき、知らされるべきだと思います。亡くなった若き未来ある少年達に心からご冥福をお祈り致します。
ありがとうございました。
(
みずえ
)
2014-07-26 12:34:24
Kazuko Onizuka様
アナガホテルにご宿泊の際に、現井植社長に案内されて、初めて宝塚よ予科練少年兵のことを知られたとのこと、本当に有り難く存じます。
そして、アナガホテルの現井植社長に、感謝申し上げます。
実は、来月2日が少年兵の70回忌となります。
生き残った兄達も、今では数名しか動ける人がいない状態で、そんな中で、兄達は頑張っています。
お近くにお住まいの方で、ご都合の付く方がありましたら、お参り頂けると有り難く存じます.
ところで、アナガホテルの現社長は、井植様とおっしゃいますか?
慈母観音像の設立の提案者のお一人である三洋電機の創業者のご子孫の方ですね?そのような方がお近くにおられるなんて、本当に嬉しく存じます。
こんばんは
(
YY
)
2014-08-05 20:45:35
鳴門の無縁仏に眠っていた少年が阿那賀の霊園に眠る少年達と一緒になれたと神戸新聞の記事に載っていましたね。
良かったですね。
もしかしたら
(
森尾賢一
)
2014-08-05 22:52:05
小生は現在57歳の東京在住の者です。父は3年前に故人となりました。 その父より生前に聞いた話なのですが、
昭和20年、父は旧満州新京(現在の長春)の一中に在学しておりこの年に同級生数名と予科練に志願したそうです。
内地に向い着いた所は宝塚でこのお話の隊ではないかと思います。詳しい事までは聞きませんでしたがこの住吉丸という船に乗っていたように思えます。小生の記憶の範囲内ではありますが散乱した戦友の死体の一番下になっておりどうにか生き残れたと言っておりました。確か以前NNNのドキュメントで山口崇氏がナレーター?でこの事件は取り上げられていたと思います。その時父よりこの話を聞きました。
話は戻りますが、事件当日か翌日の夜は仮埋葬した戦友達の墓の回りを一晩中歩哨に立たされ「精神的にも肉体的にもとても参ってしまったよ」と言っておりました。
生き残れた者達もそんなに楽にはしてもらえなかったようです。
戦後旧制中学の同期会が何度かありそちらの方は参加していたようですが、予科練の同期志願者は誰もいないと
言っていたようなのでこの時戦死されたのではないかと思います。
また一度淡路島にも行きたいような事も言っていましが
諸事情によりついに行く事が出来なかったようです。
もしこの事件が父親の言って事と同じ件であるならば
遅れ馳せながら皆様のご冥福と地元の方々の救助に心から感謝申し上げます。
ここで父が戦死していましたら、その後の父も無く
当然小生もこの世に生を得てはおりませんでしたから、、、、
本当に偶然このサイトを見つけそれが事件に近い日だったもので大変驚いている次第であります
長くなりましたが乱文にて失礼致しました
ご連絡ありがとうございます。
(
みずえ
)
2014-08-08 22:56:53
森尾賢一様
コメントありがとうございます。
8月2日に、70回忌(69年目)の法要が行われました。
兄達は、当時一番年少でしたが今は84歳、今まで世話役としてご尽力頂いていた先輩の方々は
亡くなったり、又は出席が叶わなくなってしまいましたので、数人で頑張ってきました。
今回は70回忌で、大きな節目になりました。来年は70周年となり、また記念式典が催されると
思います。
森尾様の書き込みを、兄に知らせましたら、驚いておりました。
「住吉丸」に乗っておられたのですね。
お父様のフルネームと、学校名と、生年月日などを教えて頂きたいと申しておりました。
よろしくお願い申し上げます。
なお、2014年8月2日に執り行われた 『「住吉丸」70回忌 犠牲者法要』を
伝える、神戸新聞ネットニュースです。
「住吉丸」犠牲者法要 遺族ら40人出席 南あわじ
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/201408/0007201887.shtml
父親について
(
森尾賢一
)
2014-09-03 10:03:34
遅くなりました
父は昭和4年12月5日生まれです
本名:森尾和己 *巳年生まれですが名前は己です
学校は旧制の新京第一中学と聞いておりました
祖父は満州炭鉱に勤めていたそうで
3人兄弟の次男でした
また長男も三男も同じ中学で兄は陸軍の少年飛行兵
で戦闘機乗りだったようです 子供の頃戦闘機に乗った
伯父の写真を見せてもらった記憶があります
残念ながら3名とも他界しており
これ以上詳しいことは判りません
ご返事遅くなりまして申し訳ありません
以上
森尾賢一様
(
みずえ
)
2014-09-11 19:11:16
森尾賢一様
コメントありがとうございました。
兄へ、連絡し聞きました。
兄達が最後の予科少年兵で、終戦の年の4月15日から7月15日の3ヵ月間に、海外から日本人中学生が約500人内地に来たそうです。
たった3カ月間に次から次へ500人が集まり訓練を受ける訳ですから、自分と同じ中学から来た人のことしか、分からない様です。
その詳しい名簿は無いそうです。(すぐに、まさかの終戦になった訳ですから、無理は無いと思います。)
ただ、旧満州新京(現在の長春)の一中ではなく、新京第二中学の方が3人ご存命なので、(第二中学の人達は住吉丸には乗っておられなかったが、慈母観音会に入り英霊を慰霊して下さっています)、電話で聞いてくれました。
3人とも、一中の人のことは全く分からないと言っていたそうです。
但し、二中からの志願者が8名なので、一中からも多くの人が志願したのではないかとのことだったそうです。
住吉丸に乗っていたのは、41分隊と43分隊だったそうで、兄は43分隊だったそうです。
もう少し早かったら良かったが、もう多くの方が亡くなったので、詳しいことは分からず惜しかったと兄は言っておりました。
今年は、70回忌でしたが、来年は70周年となります。
兄は、今年も、お世話をするのがようやくですので、来年は行けるかな?などと言っております。
以上、分かりましたことをお伝えします。
生存者のひとりが私の父でした
(
嘉子
)
2017-08-25 18:31:25
ブログを読ませていただき涙が止まりません。
実は私の父はこの住吉丸で九死に一生を得た若者の一人でした。夏になりますといつも以上に父を思い出します。父の痕跡を探して検索をしていたところ、お導きによりこのブログに出会うことが出来ました。
父は昭和57年の8月1日朝、57歳の若さでまるで天に召されたかのようにたった一晩で突然亡くなってしまいました。戦友とほぼ同じ夏の夜のことでした。家族の私たちは戦友たちとあまりにも近い命日のため運命を感じております。爆破を受けた当日の夜はカレーライスで、その匂いを嗅いで立錐の地ないほどすし詰めに立ち、ままお腹を空かせていたところ突然海に放り出されたのだ父は語っていたそうです。
「悔恨の海」のテレビを家族全員で視聴したことが懐かしく思い出されます。同番組では宝塚歌劇団が同隊に「お山の杉の子」の歌を歌って送ってくれたことを放送していました。父はいつも私たちにお山の杉の子を歌ってくれていました。その訳を知ってからは、私にとりこの歌が違う意味を持って聞こえるようになりました。
ブログを書いてくださりありがとうございました。
嘉子さま コメントありがとうございました。
(
みずえ
)
2017-09-01 09:43:10
嘉子さま
コメントありがとうございました。
お父様のこと、すぐ兄に知らせました。大変驚いていました。
そして、兄はすぐ、自分の資料を調べようとしました。
大量の資料を持っているので、その中に写真も少しあるので、お父様のお名前が分かれば、何かの情報が分かるかも知れないと言っていました。
電話でいろいろ話をしてくれましたが(宝塚海軍航空隊のこと)、細かくて纏めきれないので、とり急ぎ、ご返事申し上げます。
兄は、現在86才です。当時の最年少兵です。お父様も同年齢かと思います。
今年の慰霊祭は当時の戦友は兄以外は誰も出席されなかったそうです。他界された方が多く、ご本人は元気な方も奥さんが病気のため欠席された方が3名程おられたそうです。
兄も、いつも来年は行けるかなと言いつつ、毎年世話役を務めております。
運転免許は返納したので、今では子供が連れて行ってくれるので行くことが出来ます。孫達も付いて来てくれます。
白内障の手術を、8月と9月に片方ずつします。
嘉子さまの父上のお名前が分かれば、少しは何か分かるかも知れませんので、よろしければお知らせ下さいとのことです。
Unknown
(
今別府香織
)
2019-02-18 18:58:51
はじめまして。突然のコメント失礼します。
来月、淡路島を巡る企画しておりまして、その中で鎧崎桜ヶ丘英霊墓地へお参りに行く予定を入れています。情報を探しているところをこちらに辿り着きました。
このことを多くの方に知っていただきたいと思います。
旅のしおりを作成するにあたって、この文を転載させていただくことは可能でしょうか?
わかりました。
(
みずえ
)
2019-02-19 21:08:02
今別府香織
コメント拝見しました。
このことを、多くの方に知って頂きたいと思っておりましたので、お申し出の件有難く存じます。もちろん転載は可能です。
どうぞよろしくお願い致します。
今別府香織様、お手紙有り難うございました。
(
みずえ
)
2019-04-12 09:35:29
今別府香織様
お手紙有り難うございました。あなたが、お墓参りの旅を多くの皆様を共に、実行して下さったこと有難く思いました。語り継いで行くことの大切さを、再認識させて頂きました。これからも、よろしくお願い致します。有り難うございました。
Unknown
(
たかよし
)
2023-09-14 07:36:26
阿那賀へ釣りに行った時はお参りさせていただいてます。
たかよし様 ありがとうございます。
(
みずえ
)
2023-09-14 11:27:34
たかよしさま
本当にありがたく、御礼申し上げます。
実は、一番年下で、最後まで、お世話役をさせていただいていた兄も、一昨年
亡くなり、もう、当事者で生存している人は、多分お一人ぐらいとなりました。
たかよしさまの様な方が、忘れずにお参りしていただくと言うことは、本当にありがたく存じます。深く御礼申し上げます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
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しかし、悲惨な出来事だけに あまり多くは語りませんでした。 当時の事を取材を要請されても拒否をされていたようです。
私は子供頃を色々と思い出す中で 予科練の事が気になってネットを見ると余りにも酷いことでショックを受けて 前々日に阿那賀の墓地と春日寺に伺いました。
墓石に刻まれたのを見ると最年少で11歳と刻まれたのを見ると……
改めて嘆かわしい想いを致しました。
来年の8月2日の命日には春日寺を御参りしたいと思っております。
追記
春日寺に伺った際に本堂にて爽やかな風を受けました。
また、お墓にても軽く優しい微風を感じましたね。
書き込みありがとうございました。
>私の親が戦前から宝塚に住んでおり、隣が予科練の方々の宿泊をされていた旅館で…
何と言う偶然でしょうか?驚きました。
>私は子供頃を色々と思い出す中で 予科練の事が気になってネットを見ると余りにも
>酷いことでショックを受けて 前々日に阿那賀の墓地と春日寺に伺いました。
ありがとうございます。
さっそく、兄に山上様のことを連絡致しました。大変感謝しておりました。
>来年の8月2日の命日には春日寺を御参りしたいと思っております。
ありがとうございます。
山上様に伝わったことで、私がブログで書かせて頂いた甲斐がありました。
とても嬉しく存じます。なお、予科練の続きをあと2話ほど書きたいと思っております。
これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
親が宿泊先の隣に住んでいた縁で 少年達から親への手紙を託されて監視の目が厳しい中で親元に届けて 戦後に手紙を届けたご両親から亡くなられた事情を知ったと聞いておりましが.その私の親は昭和57年に末期ガンで他界を致しました。
私もあなた様と同様に宝塚海軍予科練の少年達の事を後世に伝えたい思いは強いです。
書き込みありがとうございます。
>親が宿泊先の隣に住んでいた縁で 少年達から親への手紙を
>託されて監視の目が厳しい中で親元に届けて…
心優しいご両親に感謝致します。
>私もあなた様と同様に宝塚海軍予科練の少年達の事を後世に>伝えたい思いは強いです。
本当にありがとうございます。
ところで、山上様にお願いがあります。
このことをブログに書かせて下さいませ。
コメント欄は目立ちませんことと、大変有難いご意見ですので
ぜひ、新たにブログにUPさせて頂きたいと存じます。
ご了承下さいませ。
了解しました。 また、何か出来る事が有れば 連絡を頂ければと思っております。
あなた様との連絡の方法はどのようにすれば よいのでしょうか ?
是非 御覧になられては如何でしょうか?
後世に語り継いで頂きたいと願っております
教えて頂いてありがとうございます。
山上様には、多くのことを教わり感謝しております。
「戦争と平和展」のこと、そしてその他のことをまとめて、又ブログに書きたいと思っております。いつもありがとうございます。
8月2日の法要は別にして何方が 御参りに行かれているのでしょうかね。 ふと、気がかりに……
只今、Y.Yさまから下記の通り連絡がありましたので、至急お知ら申し上げます。
新聞にて案内されておりましたが、実際に行って見ると戦争と平和のタイトルの資料が
展示されておりませんでした。
それで、調べたところ、新聞社に貰った記事のコピーの日付けが薄れていて読み間違い
しており、2011年のものでした。大変 申し訳ありません。
もし ご覧になられて行かれた方にはなんとお詫びしていいのか…。
本当にすみません。
とのメールが、只今現地からありました。
皆さんに、よろしくお伝え下さいとの事ですので、よろしくお願い申し上げます。
私からも、お詫び申し上げます。 (ブログ管理者より)
大変な御迷惑をおかけしてしまい。
申し訳ございませんでした。
すいません。
この度は、心のこもったコメントをお寄せ頂き、厚く御礼申し上げます。私のブログが塩路様のお目に留まりましたことを、とても有り難く存じます。グログに書いた甲斐がありました。
>彼等を慰霊する女神の如し観音像の存在を知り、少しでも彼等の霊が靖まらん事を祈りたいです。
ありがとうございます。
来年は、満69年目となりますので、七十回忌を迎えます。
もう、当時の生き残りの少年達は年を取り、お参りに馳せ参じることの出来る人は、一番若かった兄を含め数人になってしまいました。
若い方を始め一人でも多くの方にどうかこのことを知って頂き、この辺りへ来られる時は、お参りいただけましたら本当に有り難く存じます。
コメントありがとうございました。
もしかしたら、
>国道から見える巨大な観音像
と言われるのは、別物と思います。
こちらの観音像は、国道からは見えないと思うのです。
向かいは、海ですから。
「鎧崎桜ヶ丘英霊墓地」ですので、よろしくお願い申し上げます。
もちろん、その巨大な観音像の方も、見かけられたら合掌をお願い申し上げます。
7月19日、アナガホテルに宿泊した際に、現井植社長に案内されて、宝塚予科練のこと、空襲に遭い多数の若い命がこの海上で亡くなったことを知りました。
私はこのことを2014年の7月19日まで知りませんでした。きっと、私同様、多くの方々がこの“事実”を知らないと思います。事実は知るべき、知らされるべきだと思います。亡くなった若き未来ある少年達に心からご冥福をお祈り致します。
アナガホテルにご宿泊の際に、現井植社長に案内されて、初めて宝塚よ予科練少年兵のことを知られたとのこと、本当に有り難く存じます。
そして、アナガホテルの現井植社長に、感謝申し上げます。
実は、来月2日が少年兵の70回忌となります。
生き残った兄達も、今では数名しか動ける人がいない状態で、そんな中で、兄達は頑張っています。
お近くにお住まいの方で、ご都合の付く方がありましたら、お参り頂けると有り難く存じます.
ところで、アナガホテルの現社長は、井植様とおっしゃいますか?
慈母観音像の設立の提案者のお一人である三洋電機の創業者のご子孫の方ですね?そのような方がお近くにおられるなんて、本当に嬉しく存じます。
良かったですね。
昭和20年、父は旧満州新京(現在の長春)の一中に在学しておりこの年に同級生数名と予科練に志願したそうです。
内地に向い着いた所は宝塚でこのお話の隊ではないかと思います。詳しい事までは聞きませんでしたがこの住吉丸という船に乗っていたように思えます。小生の記憶の範囲内ではありますが散乱した戦友の死体の一番下になっておりどうにか生き残れたと言っておりました。確か以前NNNのドキュメントで山口崇氏がナレーター?でこの事件は取り上げられていたと思います。その時父よりこの話を聞きました。
話は戻りますが、事件当日か翌日の夜は仮埋葬した戦友達の墓の回りを一晩中歩哨に立たされ「精神的にも肉体的にもとても参ってしまったよ」と言っておりました。
生き残れた者達もそんなに楽にはしてもらえなかったようです。
戦後旧制中学の同期会が何度かありそちらの方は参加していたようですが、予科練の同期志願者は誰もいないと
言っていたようなのでこの時戦死されたのではないかと思います。
また一度淡路島にも行きたいような事も言っていましが
諸事情によりついに行く事が出来なかったようです。
もしこの事件が父親の言って事と同じ件であるならば
遅れ馳せながら皆様のご冥福と地元の方々の救助に心から感謝申し上げます。
ここで父が戦死していましたら、その後の父も無く
当然小生もこの世に生を得てはおりませんでしたから、、、、
本当に偶然このサイトを見つけそれが事件に近い日だったもので大変驚いている次第であります
長くなりましたが乱文にて失礼致しました
コメントありがとうございます。
8月2日に、70回忌(69年目)の法要が行われました。
兄達は、当時一番年少でしたが今は84歳、今まで世話役としてご尽力頂いていた先輩の方々は
亡くなったり、又は出席が叶わなくなってしまいましたので、数人で頑張ってきました。
今回は70回忌で、大きな節目になりました。来年は70周年となり、また記念式典が催されると
思います。
森尾様の書き込みを、兄に知らせましたら、驚いておりました。
「住吉丸」に乗っておられたのですね。
お父様のフルネームと、学校名と、生年月日などを教えて頂きたいと申しておりました。
よろしくお願い申し上げます。
なお、2014年8月2日に執り行われた 『「住吉丸」70回忌 犠牲者法要』を
伝える、神戸新聞ネットニュースです。
「住吉丸」犠牲者法要 遺族ら40人出席 南あわじ
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/201408/0007201887.shtml
父は昭和4年12月5日生まれです
本名:森尾和己 *巳年生まれですが名前は己です
学校は旧制の新京第一中学と聞いておりました
祖父は満州炭鉱に勤めていたそうで
3人兄弟の次男でした
また長男も三男も同じ中学で兄は陸軍の少年飛行兵
で戦闘機乗りだったようです 子供の頃戦闘機に乗った
伯父の写真を見せてもらった記憶があります
残念ながら3名とも他界しており
これ以上詳しいことは判りません
ご返事遅くなりまして申し訳ありません
以上
コメントありがとうございました。
兄へ、連絡し聞きました。
兄達が最後の予科少年兵で、終戦の年の4月15日から7月15日の3ヵ月間に、海外から日本人中学生が約500人内地に来たそうです。
たった3カ月間に次から次へ500人が集まり訓練を受ける訳ですから、自分と同じ中学から来た人のことしか、分からない様です。
その詳しい名簿は無いそうです。(すぐに、まさかの終戦になった訳ですから、無理は無いと思います。)
ただ、旧満州新京(現在の長春)の一中ではなく、新京第二中学の方が3人ご存命なので、(第二中学の人達は住吉丸には乗っておられなかったが、慈母観音会に入り英霊を慰霊して下さっています)、電話で聞いてくれました。
3人とも、一中の人のことは全く分からないと言っていたそうです。
但し、二中からの志願者が8名なので、一中からも多くの人が志願したのではないかとのことだったそうです。
住吉丸に乗っていたのは、41分隊と43分隊だったそうで、兄は43分隊だったそうです。
もう少し早かったら良かったが、もう多くの方が亡くなったので、詳しいことは分からず惜しかったと兄は言っておりました。
今年は、70回忌でしたが、来年は70周年となります。
兄は、今年も、お世話をするのがようやくですので、来年は行けるかな?などと言っております。
以上、分かりましたことをお伝えします。
実は私の父はこの住吉丸で九死に一生を得た若者の一人でした。夏になりますといつも以上に父を思い出します。父の痕跡を探して検索をしていたところ、お導きによりこのブログに出会うことが出来ました。
父は昭和57年の8月1日朝、57歳の若さでまるで天に召されたかのようにたった一晩で突然亡くなってしまいました。戦友とほぼ同じ夏の夜のことでした。家族の私たちは戦友たちとあまりにも近い命日のため運命を感じております。爆破を受けた当日の夜はカレーライスで、その匂いを嗅いで立錐の地ないほどすし詰めに立ち、ままお腹を空かせていたところ突然海に放り出されたのだ父は語っていたそうです。
「悔恨の海」のテレビを家族全員で視聴したことが懐かしく思い出されます。同番組では宝塚歌劇団が同隊に「お山の杉の子」の歌を歌って送ってくれたことを放送していました。父はいつも私たちにお山の杉の子を歌ってくれていました。その訳を知ってからは、私にとりこの歌が違う意味を持って聞こえるようになりました。
ブログを書いてくださりありがとうございました。
コメントありがとうございました。
お父様のこと、すぐ兄に知らせました。大変驚いていました。
そして、兄はすぐ、自分の資料を調べようとしました。
大量の資料を持っているので、その中に写真も少しあるので、お父様のお名前が分かれば、何かの情報が分かるかも知れないと言っていました。
電話でいろいろ話をしてくれましたが(宝塚海軍航空隊のこと)、細かくて纏めきれないので、とり急ぎ、ご返事申し上げます。
兄は、現在86才です。当時の最年少兵です。お父様も同年齢かと思います。
今年の慰霊祭は当時の戦友は兄以外は誰も出席されなかったそうです。他界された方が多く、ご本人は元気な方も奥さんが病気のため欠席された方が3名程おられたそうです。
兄も、いつも来年は行けるかなと言いつつ、毎年世話役を務めております。
運転免許は返納したので、今では子供が連れて行ってくれるので行くことが出来ます。孫達も付いて来てくれます。
白内障の手術を、8月と9月に片方ずつします。
嘉子さまの父上のお名前が分かれば、少しは何か分かるかも知れませんので、よろしければお知らせ下さいとのことです。
来月、淡路島を巡る企画しておりまして、その中で鎧崎桜ヶ丘英霊墓地へお参りに行く予定を入れています。情報を探しているところをこちらに辿り着きました。
このことを多くの方に知っていただきたいと思います。
旅のしおりを作成するにあたって、この文を転載させていただくことは可能でしょうか?
コメント拝見しました。
このことを、多くの方に知って頂きたいと思っておりましたので、お申し出の件有難く存じます。もちろん転載は可能です。
どうぞよろしくお願い致します。
お手紙有り難うございました。あなたが、お墓参りの旅を多くの皆様を共に、実行して下さったこと有難く思いました。語り継いで行くことの大切さを、再認識させて頂きました。これからも、よろしくお願い致します。有り難うございました。
本当にありがたく、御礼申し上げます。
実は、一番年下で、最後まで、お世話役をさせていただいていた兄も、一昨年
亡くなり、もう、当事者で生存している人は、多分お一人ぐらいとなりました。
たかよしさまの様な方が、忘れずにお参りしていただくと言うことは、本当にありがたく存じます。深く御礼申し上げます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。