ミロク文明

新しき[神]の国の写し絵、天国地の上に現す
ミロクの世 ミロク文明人 大和ごころを志しての旅は・波・∞無限大∞

弥勒菩薩 論・A・

2012-11-20 20:54:21 | 弥勒菩薩論
*弥勒菩薩論【A】 (シュタイナーと出口王仁三郎の一致-[Ⅰ])の記事
  
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ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合「概 要」
  はじめに 目次

地球の救い方・・・R.シュタイナーの人智学に学ぶ「リスト」
第一章 シュタイナーの弥勒菩薩の講義に符合する出口王仁三郎の足跡     
 ・シュタイナー(1911年9月21日 ミラノでの講義)
・・・知性と美意識と徳性が人間の魂的生活の中に現れてくる過程を把握するために、もう一度、第五、第六、第七、後アトランティス文化期【1】について考えてみましょう。
■コメント:
■【1】第五、第六、第七、後アトランティス文化期について
 ◇シュタイナーによれば、現代とは、遊星の7段階における地球期の、7小循環における後アトランティス時代の、7区分における第五文化期に当たります。
*ルドルフ・シュタイナー - Wikipedia

 ◇ 一方、出口王仁三郎は、1871年(旧歴7月12日)(新暦:8月27日)生まれで、新暦1928年3月3日、”満56歳7ヶ月”に『みろく大祭』を行なっています。さらに、新暦1948年1月19日、”満76歳5ヶ月”で昇天しています。
これは、1928年から1948年の間に出口王仁三郎が弥勒菩薩として神業の型を示したものであるとされています。
*出口王仁三郎 でぐち おにさぶろう、新宗教「大本」の二大教祖の一人- Wikipedia

仏教において、弥勒菩薩は56億7千万年後に弥勒仏となるとされており、弥勒が菩薩から仏の階位になる型として、5・6・7という数字は、深い霊的意味を秘めています。そして、王仁三郎は、五六七をミロクと読んでいます。
  
 ◇ 五・六・七の数字の示す意味は双方では違いがありますが、ここでは、双方が、弥勒菩薩と五・六・七という数字に、深い意味を暗示していることを心に留めておいて下さればと思います。
 

* 現在の第五文化期に於いて、道徳的な行為に喜びを感じないとしても、知力が損われることはありません。
第六文化期に於いては様子は全く異なってきます。紀元三千年頃から、悪徳は知能を崩壊させるようになります。

知的でありながら不徳である人間の心的能力は、どんどん退化してゆきます。道徳を顧みない人間は全く知力を失った人間になります。
知が全く「徳」に基づくものになるからです。第七文化期に於いては「徳」を有しない知は存在することができなくなります。【2】・・(途中、省略)

■【2】第六、第七文化期における道徳と智の関係について
 ◇ シュタイナーは、一つの文化期が約2160年単位(黄道十二宮と春分点の周期)で、進んでゆくとしているので、第四文化期(牡羊座文化)から第五文化期(魚座文化)に移行したのは西暦の1413年頃だとされています。よって、
       第五文化期(魚座文化) は、1413年頃からの約2160年間、
       第六文化期(水瓶座文化)は、3573年頃からの約2160年間、
       第七文化期(山羊座文化)は、5733年頃からの約2160年間、
と、推定されます。そして、
       第五文化期は「知的でありながら不徳である人間が退化してゆく時代」
       第六文化期は「道徳を顧みない人間は全く知力を失った人間になる時代」
       第七文化期は「徳を有しない知は存在することができなくなくなる時代」
であると説明しています。

 ◇ 一方、出口王仁三郎は、『ミロクの世』について、「善い事をすればよくなり、悪いことをすれば悪くなる世を称してミロクの世と云うのである。

今までの世は悪いことをしても旨く世間を胡麻化すことが出来れば立身出世も出来るし、善い事ばかりをして居ても、虐げれられ苦しめられ悲惨な境遇に泣かれなければななぬものも数多くあった。これは悪魔の守護する世であったからである。

ミロクの世になってからは最早かかる不合理は許されない。善い事をすればどんどんよくなり、悪い事を企つれば片っ端から打ち砕かれ、悪の思わくは一つも立たぬ正しい世の中になるのである。」と述べています。
 また、『ミロク三会』の説明の中では、「ミロクの三会の世は、言心行一致の神の表わるる聖代を云うのである。」と語っています。

 ◇ 「ミロクの世」の世界観については、言葉と精神と行動が伴った道徳に貫かれた世界であるという点において、双方の観点は非常に類似していることが解ります。


*・・第四後アトランティス文化期に初めて、キリスト存在は宇宙の高みから下って、肉体の中に現われました。現在の第五文化期に於いて、人間は知力を強化することによってエーテル的形姿を見ることができるように進化した人々が、1930年代から1940年代にかけて地上に現われます【3】。
■【3】進化した人々が1930年代から1940年代にかけて地上に現われることについて
 ◇ シュタイナーは、第五文化期において、1930年代から1940年代にエーテル体に存在するキリストを見ることが出来る人々(高次の見霊者)が、地上に出現すると述べています。自身でもゴルゴダの秘蹟を見霊できたシュタイナーが、どうしてこのように語ったのでしょうか?

それは、第一に、当時の神智学協会が新たな結社『東方の星』を結成し、インドの少年ジダ・クリシュナムルティをキリストの再来であるとしたことが誤解であることを指摘したと考えられます。その後、クリシュナムティは、1929年に「星の教団の解散宣言」してしまったのです。*ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia
そして第二に、これとほぼ同時期に、もう一つ注目すべきことが日本で起っています。それが、出口王仁三郎の行動です。
 
 ◇ 先にも説明しましたが、出口王仁三郎は、1928年(満56年7ヶ月)に『みろく大祭』を行ない、1948年に満76歳5ヶ月で昇天しているのです。。みろく大祭ってから昇天するまでが、1928年~1948年ということで、シュタイナーのエーテル次元に存在するキリストを見るとされる1930年代~1940年代という区切りにほぼ一致しているのです。
 ◇ したがって、シュタイナーの預言した”1930年代から1940年代”に地上に現われる進化した人々とは、出口王仁三郎とその仕組みを担った人を示していると考えられるのではないかと思うのです。


*今から後三千年の間に、多くの人々がエーテル的なキリストを見ることができるようになり、三千年後には、福音書やキリストの生涯の記録を必要としなくなります。その人たちは魂的生活の中に現実のキリストを見るからです【4】。
■【4】『紀元三千年』と『今から三千年後』の文化の違いについて
 ◇ ここでは、”三千年”という言葉が非常に多くでてきますので、多少、補足しておきたいと思います。
シュタイナーは、紀元3000年、つまり現代から約1000年後の第五文化期の終わり頃には、「悪徳は知能を崩壊さえてゆく」としています。
要するに、道徳を顧みない人間は、動物的な本能のままに動く野獣と化してゆくと考えられます。(この問題については、黙示録の666に関わることなのですが、ここでは省略します。)

一方、3000年後とは講義のなされた1911年頃から3000年後ですので、紀元4911年頃ということになり、第六文化期の中期を示すことになります。(【B】の【7】を参照のこと)

 ◇ 出口王仁三郎が神業によって型を示した舞台は、1892年、京都府綾部市の大本の開祖である出口直に艮の金神(国祖・国常立尊)が神懸り、お筆先として神示を綴ったことによって始りました。

この国祖・国常立尊は、大地を修理固成された神であり、この時まで三千年にも渡って退隠されてきたとされています。王仁三郎は、『三千年に実る桃』と題して、「三千年に初めて実る桃と云うのは、艮の金神様の事である。」としています。
   
 ◇ よって、人智学でいう地球期の全七文化期という人類の霊的な運行とは別に、三千年単位で運行する神界の仕組みがあるということが、双方の”三千年”という言葉に共通していることが解ります。
ここでは、三千年という言葉を覚えおいていただければ、後でその重要性が解ると思います。


* 第四後アトランティス文化期には、キリストが肉体に受肉したので、人々は肉体的なキリストしか見ることができなかった、ということをはっきり理解するひつようがあります。
現在の文化期に於いて、紀元三千年にかけて徐々にエーテル的なキリストの姿が見られるようになります、キリストが再び肉体の中に現われることはありません【5】。・・(途中、省略)

■【5】キリストが再び肉体の中に現われることはない、ということについて
 ◇ シュタイナーは、キリストは第四文化期に肉体を持ったナザレのイエスに三年間貫いた存在としており、第五文化期にはエーテル体、第六文化期にはアストラル体に、そして第七文化期には人類の偉大な魂の集合体の如き力強い宇宙自我の中に出現すると語っています。

 ◇ 出口王仁三郎は、『キリストの再来』と題して、「(ナザレのイエスに対する酷評を述べた上で)・・・自分の謂うキリストはそんなつまらぬ貧弱なものではない。霊肉体共に安心立命させ、人類の生活に向って、も少し活動力のあるものである。

大本人の中には自分をナザレのイエス、キリストに擬するものがままある様だが、実に迷惑千萬である。自分が嘗て霊界物語に説いたキリストとナザレのイエスとは全然別人であることをここに言明しておく。」と述べています。

 ◇ 以上より、王仁三郎は、第四文化期のナザレのイエスの(三年間ではなく一生の足跡ついて、これを”貧弱”であるとしているので、王仁三郎の云うキリストとは、自我界に現われる次元のキリスト存在であると推測できます。


*・・仏陀の階位は物質界に於いてのみ到達し得るものです。死後キリストに出会うことのできる魂も、物質界に於いてのみ獲得できるものです。菩薩は物質界に受肉し、そこで仏陀の階位へと上昇します。そして、仏陀は再び地上に受肉する必要がなくなります。

今まで話してきましたようなキリスト理解も、物質界に於いてのみ得られるのです。そして、今から三千年の間に、人類は霊的なキリストを見る力を物質界で獲得してゆくことになります。

物質界に於いて、キリストを理解する条件を作り、霊的なキリストを見る能力を用意するのが人智学の使命です。・・ 

■コメント:
 シュタイナーが、この講義を行なった1911年の当時、41歳となった人物が日本の京都府綾部市を拠点に活発な宗教活動を開始していました。
その人物こそ、大本教・出口王仁三郎です。 
私は、シュタイナーの語る弥勒菩薩についての講義を読み解くうちに、大本で神・霊・現の三界の型を示したとされる出口王仁三郎の足跡との間に、非常によく一致しているものを感じました。

そこで、以下にシュタイナーの講義文中に【■コメント】で示した内容と、出口王仁三郎の言動との関連性を示し、その謎を解き明してゆこうと思います。だたし、ルドルフ・シュタイナーの神智学の秘教講義の内容と、出口王仁三郎の「水鏡」「月鏡」「玉鏡」という、いわゆる「三境」の内容等を扱っていますので、ドイツと日本の秘教的な叡智を織り交ぜた少々難解な内容となることをお許しいただければと思います。
(シュタイナーと出口王仁三郎の一致-[Ⅰ])の記事より
(弥勒菩薩論【B】につづく)
弥勒菩薩 論・C・
弥勒菩薩 論・D・

(1911年9月21日 ミラノでの講義)
『仏陀からキリストへ』ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 書肆風の薔薇 弥勒菩薩より
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