風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

歴史戦争(Ⅰ)

2013-04-27 11:26:53 | 時事放談
 まさに歴史戦争が勃発したような様相でした。
 昨日、韓国・国会の外交統一委員会は、日本の閣僚と国会議員の靖国神社参拝や、歴史認識をめぐる安倍総理の発言を非難する決議案を採択したそうです。決議案は「非理性的な行動や発言は、未来志向の韓・日関係構築や北東アジアの平和定着に深刻な悪影響を及ぼす外交的な挑発行為だ」と批判し、日本の政治家に靖国参拝をやめるよう要求し、「多くの人に苦痛を与えた日本の過去を反省し、真心からの謝罪を表明することを求める」と強調したそうです(産経新聞)。どうやら数日前の安倍総理の国会答弁で「侵略の定義は国際的にも定まっていない」と述べたことを問題視しているようで、韓国の中央日報(24日付)は、「安倍、日帝侵略事実も否定」とする見出しを1面トップで掲載し、聯合ニュースは、安倍首相発言を「妄言」とし、「北東アジアの外交構図に影響する」と解説し、外相は「責任ある指導者なら正しい歴史認識を持ち行動に移すべきだ」と求め、外務省の第一次官は「安倍内閣の歴史認識は疑わしく、深く遺憾だ」と批判し、朴大統領も、韓国メディア幹部との昼食会で「(日韓関係は)基本的に協力関係でゆかねばならない」「歴史認識が正しく確立されることが前提だ」との認識を披露したそうです。まるで安倍総理の歴史認識は間違っている、韓国が正しい歴史を教えてやると言わんばかりの勢いですが、歴史認識を、他人から、ましてや他国から、とやかく言われる筋合いはありません。余計なお世話ですね。
 それにしても安倍さんの国会答弁は天晴れと言うべきでした。つい、言っちゃえ言っちゃえと応援したくなりました。24日の参院予算委員会で、閣僚らの靖国神社参拝に中・韓が反発していることに対し「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している。当然だろう」と述べました。また、韓国が反発していることに「靖国の抗議を始めたのは盧武鉉(政権)時代が顕著になったが、それ以前は殆どない。なぜ急に態度が変わったかも調べる必要がある」と言い、中国に対しても「A級戦犯が合祀されたとき、時の首相の参拝には抗議せず、ある日突然抗議し始めた」と不快感を示しました。そして「歴史や伝統の上に立った私たちの誇りを守ることも私の仕事だ。それを削れば(中国や韓国との)関係がうまくいくとの考えは間違っている」とも語りました(いずれも産経新聞より)。確かに、国を代表する立場にある総理大臣が、友好関係(というより戦略的互恵関係という名の特別な関係)にある隣国を挑発したり、相手の感情を逆撫でするのを更に煽ったりするのは、外交上はマイナスという意見は理解できます。同じ政治家でも高市早苗さんのような与党の一役員(政調会長)が「外交問題になること自体がおかしい。そんなことで慰霊のあり方が変わってはいけない。何か言われて変えるから余計に言われる。やるんだったらやり抜くべきだ」と騒ぐのとは、発言の重みが違います(因みに私は彼女の「アズ・ア・タックスペイヤー」(祥伝社 1989年11月)を読んだ頃から注目してきましたし、今回の発言もその通りだと思います)。しかし、これまで日本は中・韓に対して、事勿れ主義で、自己主張をしなさ過ぎました。こちらが遠慮すれば、相手もそれなりに配慮するだろうと期待していたところが日本人的ですが、中・韓との外交とはそういうものではなく、図に乗るばかりでした。日本人の多くが、いい加減にしろよ・・・と思っていたことでしょう。そんな積年の鬱憤をストレートに伝えたら、中・韓はどういう態度に出るのか、一度は見てみたかった興味深いエクササイズです。言われっ放しで終わるのではなく、一度はガツンと言い返しておくのも、中・韓との外交上のテクニックと思います。
 翻って、私たちはなぜ歴史を学ぼうとするのかということについては、アメリカ歴史協会(American History Association)の手引書が参考になると、渡部惣樹さんが「日本開国」(草思社 2009年12月)の中で述べておられます。同協会ホームページによると(長い文章の中のサブ・タイトルをいくつか拾いあげただけですが)、「歴史を知ることにより民族と社会を理解できること(History Helps Us Understand People and Societies)」、「社会の道徳倫理を学べること(History Contributes to Moral Understanding)」、「民族のアイデンティティーを醸成できること(History Provides Identity)」、などが挙げられています(http://www.historians.org/pubs/free/WhyStudyHistory.htm)。面白いのは、民族にとって歴史がこれほど重要であることを知るはずのアメリカは、逆によく知るからこそ、GHQの戦後改革の中で、日本民族を弱体化するためのプログラムの一環として、厳しい検閲を実施したほか、日本国民に対して自虐的な歴史観を植え付けたのでした(このあたりの論考は江藤淳さん「閉ざされた言語空間」(文春文庫 1994年1月、単行本の初版は1989年8月)に詳しい)。そして韓国にしても中国にしても、この歴史観を援用しているわけです。
 以前、このブログで書いたことですが、「日中韓 歴史大論争」(文春新書 2010年10月)に登場する中国社会科学院近代史研究所所長は、歴史は三つのレベルに分けて考えることが出来る、一番上は歴史観、次が歴史認識、そしてそれらのベースにあるのが歴史の事実で、いきなり歴史観や歴史認識について一致を見ようとしても、現状ではそれは不可能、しかしお互いの歴史の事実を共有することは、両国の努力によって可能ではないか、などと、フレームワークについては極めてまともな解説をするわりには、彼(だけでなく党・政府の息のかかった関係者)にとって、中国共産党公認の歴史観ありきで、それに合う都合の良い歴史的事実を拾い上げるだけで、およそ公平とは言えません。日本の歴史観や歴史認識は、歴史的事実をもとに組み上げられるのに対して、彼らの歴史観は、イデオロギーそのものです。日本は日本であることでまとまることが出来るのに対して、必ずしも近代的な意味での国民国家ではなく、国内に社会矛盾を抱える中国にしても韓国にしても、反日によってしかまとまることが出来ない、つまり権力の正統性を反日や抗日に求めざるを得ない、尋常ならざる脆弱性を伝統的に抱えています。
 また、同書の中で、中国のモンゴルやウィグルやチベット問題は「国内問題」だと主張しながら、日本の靖国問題や教科書問題は日本の「国内問題」ではなく「国際関心事」にあたり、外交問題であって、中国が発言することは何ら内政干渉にあたらないと、平然と御託を並べて、中華思想の一端をはしなくも垣間見させます。つい最近も、中国外務省報道局長は、25日の定例記者会見で、新疆ウイグル自治区での衝突で21人が死亡したことに米国が「深い懸念」を表明したことに対して、「テロを非難せずに中国の民族政策を批判することに断固反対する」と強い不快感を示したそうです。そして「米国には甚だしい民族差別と宗教差別が存在する。他国のことをとやかく指図するのではなく、自身を鏡に映して国内問題について反省すべきだ」と口汚く指摘したそうです(産経新聞)。日本だけでなく、アメリカに対しても、万事こんな調子です。(「Ⅱ」に続く)

(参考)「厄介な隣人たち・・・中国と韓国」 http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20120512
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