今から40年以上前の大阪の片田舎のベッドタウンに、「ホワイト・スネークス」なるバタ臭い名前の野球チームがあった。クラス替えがなかった小学5~6年の仲が良いクラスメイト5人が結成したものだが、いつ始まっていつ終わったかは定かではない。習いたてのローマ字を使って頭文字のH.S.のステッカーをユニフォームの胸に貼りつけて喜んでいた頃に始まり、中学に入って英語を習い始める内に、W.S.の間違いではないかと指摘してお互いに苦笑いした記憶があるから、中学生になってからも暫く続いていたことになる。
当初、小学生のくせに、監督はなく、コーチは互選し、守備も打順も皆で話し合って決めるという、生意気なほど民主的な運営は、むしろ牧歌的ですらある。しかし、ひとたび試合になると連戦連勝で負け知らずの、伝説的なチームだった。
メンバーがなかなかの個性派揃いだ。ピッチャー兼投手コーチのカネやんは、後に高校時代に駅伝で活躍するスポーツマンで、左投げ左打ち、上背があってストレートに伸びがあった。キャッチャーのシゲは、幼稚園の頃はいつも黄色っ洟をたらしていたものだが、でっぷり太った存在感は名実ともにチームの要であり、当たればホームラン、当たらなければ三振と、打撃の思いきりの良さといい体格といい、当時、阪神のキャッチャー田淵そのままだった。ファースト兼打撃コーチのサイセンは、背丈こそクラスで一番低いものの野球センスは抜群で、左投げ左打ちと、当時、巨人のファースト王さんを気取った。セカンドのウラシマは、一つ年下だが、地元の名士のドラ息子で、キャッチャーミットやキャッチャーマスクやファーストミットなど、当時、誰ももっていない珍しい道具を買い与えられていて、重宝するので仲間に入れられた。サード兼守備コーチのヒラメは、勉強ができない連中の中にあって異色の、児童会・会長もこなす優等生で、当時、巨人のサード長嶋ばりの守備上手。ショートのフクイは、カッコつけのマセガキながら、やるべきときにはやる男で、誰も褒めてくれないものだから「鉄壁の三遊間」などと吹聴しまくった。以上の6人をコア・メンバーとして、試合のときにはその都度、近所のガキを借り集めて外野に立たせることになるから、内野の守備こそ固くて惚れ惚れするほどだったが、外野に打球が飛ぶと長打になるのが玉にキズだった。
当時は、週休二日制なる言葉が辞書に載る遥か以前で、虎の子の安息日である日曜日に、雨の日も風の日も、毎週欠かさず集まっては和気藹々、小学校のグラウンドや近所の某社宅のグラウンドに忍び込んで、練習しているのか遊んでいるのか、とにかく野球と遊びが大好きな少年たちだった。李下に冠を正さず、と言うが、あるときファール・ボールが柵を越えてイチゴ畑に飛び込むと、球探しをするフリをして、しこたまイチゴを頬張ったものだし、またあるときには小学校の給食室の前までボールが転がり、給食の余りの牛乳が栓を開けられないまま残っているのを見つけて失敬したら、ヨーグルトのようにドロンと固まっていて、びっくらこいたものだ(いずれも時効成立)。時々、練習が終わって、ウラシマの家の前でたむろしていると、「いつも遊んでくれてありがとう」と、当時はまだ珍しいクーラー(今で言うところのエアコン)がある部屋に通されて、いつもは賑やかな彼らも、カルピスをご馳走になる頃には、借りて来た猫のようにおとなしくなった。
練習はもちろん、試合のためにある。その相手として、リトルリーグのチームが恰好の餌食になった。ホーム・ベースなどの各種備品が揃っている上、監督サンが審判になってくれるし、そもそもプライドが高い連中のこと、貧相な彼らに対して野球を教えてやろうと言わんばかりのノリで相手をしてくれる。それで逆にやっつけてしまうのだから、痛快この上ない。また、同じ小学校や中学校の他クラスの知人に試合を挑むこともあったし、あるときには近所の悪ガキ・チームと、あちらからとこちらから、狭いグラウンドで入り乱れている内に、乱闘ならぬ果たし合いに至ったこともある。そのときは、偶々散歩中の同級生のお父ちゃんを見つけて審判を頼みこみ、プレイボール。隣のクラスのヌマ公と崇められていたガキ大将がピッチャーで、ガキ大将と言えばだいたい成長がちょっと早くて大人並みの体格なものだから、多少はノーコンでもスピードがあって、さすがの彼らも打ちあぐねていた。ところが、取り巻き連中がヘナチョコで、ボテボテの内野ゴロがヒットになったのを機に畳みかけ、サイセンの一振りで絵に描いたような劇的なサヨナラ勝ちをおさめて、不敗伝説を守った。
彼らにとっては、「フィールド・オブ・ドリームス」。大阪という土地柄、野球帽には巨人のマークと阪神のマークが半々、ユニフォームもばらばらで、最後まで私服のままの者もいて、バットとボールとグローブを持っている者が持ち寄るだけの、あるがままの雑草のようなチームだったが、練習するたびに野球が上手くなった。そして、それぞれに守備と打順が割り振られ、期待された役割をこなすことに誇りをもち、勝利することに喜びを感じ、組織だったリトルリーグのチームを倒すことには快感を覚えた。家に帰ると、今のように一人ひとりに勉強部屋があてがわれているわけではなかったが、グラウンドには間違いなく彼らの居場所があった。
そんな彼らに、甲子園は夢のまた夢。皆、地元の公立中学に進学したが、気が弱い彼らは、野球部が札付きの不良の巣窟と知ると、入部の扉を叩く勇気がある者はなかった(笑)。その後、母子家庭のカネやんはお母ちゃんのたこ焼屋を継ぎ、シゲは自動車修理工に、フクイはスナック経営と、風の便りに聞いたが、残り3人の行方は杳として知れない。いつか「ホワイト・スネークス」を再結成して、ガキを相手に試合を挑んで、大人げなく本気で、と言うか、童心に返って勝ちを目指して欲しいというのが、ごっこ遊びに興じる彼らを傍で見ていた私の夢なのだが。
当初、小学生のくせに、監督はなく、コーチは互選し、守備も打順も皆で話し合って決めるという、生意気なほど民主的な運営は、むしろ牧歌的ですらある。しかし、ひとたび試合になると連戦連勝で負け知らずの、伝説的なチームだった。
メンバーがなかなかの個性派揃いだ。ピッチャー兼投手コーチのカネやんは、後に高校時代に駅伝で活躍するスポーツマンで、左投げ左打ち、上背があってストレートに伸びがあった。キャッチャーのシゲは、幼稚園の頃はいつも黄色っ洟をたらしていたものだが、でっぷり太った存在感は名実ともにチームの要であり、当たればホームラン、当たらなければ三振と、打撃の思いきりの良さといい体格といい、当時、阪神のキャッチャー田淵そのままだった。ファースト兼打撃コーチのサイセンは、背丈こそクラスで一番低いものの野球センスは抜群で、左投げ左打ちと、当時、巨人のファースト王さんを気取った。セカンドのウラシマは、一つ年下だが、地元の名士のドラ息子で、キャッチャーミットやキャッチャーマスクやファーストミットなど、当時、誰ももっていない珍しい道具を買い与えられていて、重宝するので仲間に入れられた。サード兼守備コーチのヒラメは、勉強ができない連中の中にあって異色の、児童会・会長もこなす優等生で、当時、巨人のサード長嶋ばりの守備上手。ショートのフクイは、カッコつけのマセガキながら、やるべきときにはやる男で、誰も褒めてくれないものだから「鉄壁の三遊間」などと吹聴しまくった。以上の6人をコア・メンバーとして、試合のときにはその都度、近所のガキを借り集めて外野に立たせることになるから、内野の守備こそ固くて惚れ惚れするほどだったが、外野に打球が飛ぶと長打になるのが玉にキズだった。
当時は、週休二日制なる言葉が辞書に載る遥か以前で、虎の子の安息日である日曜日に、雨の日も風の日も、毎週欠かさず集まっては和気藹々、小学校のグラウンドや近所の某社宅のグラウンドに忍び込んで、練習しているのか遊んでいるのか、とにかく野球と遊びが大好きな少年たちだった。李下に冠を正さず、と言うが、あるときファール・ボールが柵を越えてイチゴ畑に飛び込むと、球探しをするフリをして、しこたまイチゴを頬張ったものだし、またあるときには小学校の給食室の前までボールが転がり、給食の余りの牛乳が栓を開けられないまま残っているのを見つけて失敬したら、ヨーグルトのようにドロンと固まっていて、びっくらこいたものだ(いずれも時効成立)。時々、練習が終わって、ウラシマの家の前でたむろしていると、「いつも遊んでくれてありがとう」と、当時はまだ珍しいクーラー(今で言うところのエアコン)がある部屋に通されて、いつもは賑やかな彼らも、カルピスをご馳走になる頃には、借りて来た猫のようにおとなしくなった。
練習はもちろん、試合のためにある。その相手として、リトルリーグのチームが恰好の餌食になった。ホーム・ベースなどの各種備品が揃っている上、監督サンが審判になってくれるし、そもそもプライドが高い連中のこと、貧相な彼らに対して野球を教えてやろうと言わんばかりのノリで相手をしてくれる。それで逆にやっつけてしまうのだから、痛快この上ない。また、同じ小学校や中学校の他クラスの知人に試合を挑むこともあったし、あるときには近所の悪ガキ・チームと、あちらからとこちらから、狭いグラウンドで入り乱れている内に、乱闘ならぬ果たし合いに至ったこともある。そのときは、偶々散歩中の同級生のお父ちゃんを見つけて審判を頼みこみ、プレイボール。隣のクラスのヌマ公と崇められていたガキ大将がピッチャーで、ガキ大将と言えばだいたい成長がちょっと早くて大人並みの体格なものだから、多少はノーコンでもスピードがあって、さすがの彼らも打ちあぐねていた。ところが、取り巻き連中がヘナチョコで、ボテボテの内野ゴロがヒットになったのを機に畳みかけ、サイセンの一振りで絵に描いたような劇的なサヨナラ勝ちをおさめて、不敗伝説を守った。
彼らにとっては、「フィールド・オブ・ドリームス」。大阪という土地柄、野球帽には巨人のマークと阪神のマークが半々、ユニフォームもばらばらで、最後まで私服のままの者もいて、バットとボールとグローブを持っている者が持ち寄るだけの、あるがままの雑草のようなチームだったが、練習するたびに野球が上手くなった。そして、それぞれに守備と打順が割り振られ、期待された役割をこなすことに誇りをもち、勝利することに喜びを感じ、組織だったリトルリーグのチームを倒すことには快感を覚えた。家に帰ると、今のように一人ひとりに勉強部屋があてがわれているわけではなかったが、グラウンドには間違いなく彼らの居場所があった。
そんな彼らに、甲子園は夢のまた夢。皆、地元の公立中学に進学したが、気が弱い彼らは、野球部が札付きの不良の巣窟と知ると、入部の扉を叩く勇気がある者はなかった(笑)。その後、母子家庭のカネやんはお母ちゃんのたこ焼屋を継ぎ、シゲは自動車修理工に、フクイはスナック経営と、風の便りに聞いたが、残り3人の行方は杳として知れない。いつか「ホワイト・スネークス」を再結成して、ガキを相手に試合を挑んで、大人げなく本気で、と言うか、童心に返って勝ちを目指して欲しいというのが、ごっこ遊びに興じる彼らを傍で見ていた私の夢なのだが。