前回ブログは、私が初めて業務出張したのが台湾だったというご縁から話を始めたが、当時、それを聞いた母は、母方の私の祖父もその昔、台湾に出稼ぎに出たことがあったらしく、ご縁だねえ、と呟いた。私にとっては初めての「海外」だったが、もとより祖父の時代には「海の外」ではあっても日本の一部、本土の延長であって、母は外国ではなく「外地」と呼んだ(Wikipediaによれば、日本固有の領土以外で、日清戦争終結後から新たに領有または統治するようになった地域を指すらしい)。私の郷里・鹿児島から、当時、どんな事情があってはるばる台湾に渡ったのか、一体何をしていたのか、今となっては聞きそびれたことが悔やまれる。今日はその祖父の命日で、3歳まで過ごした鹿児島の記憶は残念ながら私にはないが、片田舎の町長をやっていた祖父が晩年の徒然に、端午の節句に朝夕、鯉のぼりを揚げ下げしに行くために声をかけてくれた話を、母から聞かされた・・・とまあ、私の感傷に過ぎないが、罪滅ぼしを込めて、今回も台湾の話を続けたい。
表題の通り、台湾と朝鮮半島の間には東シナ海が横たわるが、今更そんな地理的なことを話しても仕方ない。政治的な話として、李登輝さんや台湾の人々が親日であることを、遡れば、台湾統治と朝鮮半島統治とで何が違ったのかを不思議に思うのである。
台湾は、戦前から住んでいる本省人と、戦後移住してきた外省人とが混在し、アイデンティティの分裂に悩まされ来た。私が出張で足繁く通っていた頃、中華料理の夕食の後には決まってカラオケに連れて行かれて、ここぞとばかりに覚えたての中国語を繰り出すと、北京語上手ねえ、と日本語で軽くあしらわれたものだった。それほど台湾にとって内(台湾語)・外(北京語)の溝は深かったのだろう。
そもそも台湾は、オランダ、鄭成功、清王朝、大日本帝国と、外部勢力によって支配されてきた不幸な歴史を持つ。清の時代には「化外の地」として見捨てられ、日清戦争の後、日本が植民地経営(とは言っても、欧米流と日本流では異なるのだが、とりあえずそう呼ぶ)に乗り出した頃には、感染症がはびこり、日本人がとても住めそうにない、文明から取り残された地だった。李登輝さんは本省人で、苦労の末に権力の頂点に登り詰めた話は前回ブログの通りだが、ここでのポイントは、日本統治があってこそ、国民党政権下で「政治参加」の道が開かれたと思われるところだ。
もとより日本の統治を全面的に擁護するつもりはないが、その後の国民党の統治が苛酷だったために、住民の過激なまでの反発を招いたことが影響したのは事実だろう。実際、日本の統治にも厳しい面はあったようだが、国民党の統治に代わって、日本の統治を懐かしむという逆転現象が見られたと聞く。また、李登輝さんが総統になる前後から、台湾の対中政策は開放的になり、それまでは内戦中という建前で交流が途絶えていたが、経済的な往来が頻繁になると、今度は過度な中国依存のリスクが芽生えたため、台湾の持つ産業や技術の優位性を維持するため、電子産業を保護するなど、資源配分に配慮したそうだ。さらに、教育改革(特に歴史教育)を通して、「台湾人」のアイデンティティを育んだ。ここで重要なのは、中国との関係において、いったんは認めていた「一つの中国」から、中国と台湾は別の国だと位置づける大胆な「二国論」へと舵を切ったことだ。大雑把に言えば、日本の統治を通して築かれた近代的な基礎の上に、李登輝さんが身体を張って現在に至る台湾を育てあげたということだ。李登輝さんが親日だったのは、日本(統治時代の)生まれで、その教育を受けたことばかりではなく、こうした歴史的な経緯によるものだろうと思われる。
こうして、朝鮮半島との比較で言えば、朝鮮半島に、遅くとも中国の郡県制支配が終わった4世紀以降は、まがりなりにも土着の(とは、つまり朝鮮民族の)王朝(=新羅、高麗、李氏朝鮮)が存続していたことを想起すれば、日本による植民地経営を受け入れる体質そのものに決定的な相違を生じていたと言えるだろう。かたやユーラシア大陸から若干の距離を置いてへばりつくように位置し、直接の影響を受けることが少なかった小さな島に過ぎない(という意味では日本に似ている)台湾と、ユーラシア大陸の辺境とは言え、それ以上は逃れることが出来ないドン詰まりの半島国家で、大国である中国に隣接し、常に、陰に陽に影響を受け続け、事大主義(中国やロシアなどの“大”国に“事”(つか)える)に揺れながら、それでも民族としてのアイデンティティを失うことはなかった矜持を持つ朝鮮半島とでは、生い立ちが違うのである。
日本は、中国の歴代王朝がそれほど覇権主義的ではなかった事実(いわゆる中華思想と王化思想)と、仮に圧力が強まっても朝鮮半島が緩衝地帯としてその圧力を堰き止めた事実という、地理的に極めて幸運な歴史をもつ。例外は白村江の戦いと元寇と秀吉の朝鮮出兵であろうか、1400年足らずの歴史で、たったこれだけである。今、中国が覇権主義的であるのは、近代になってから欧米の帝国主義に踏みにじられ、アヘン戦争以来の歴史の屈辱を雪ぎ、民族主義を鼓舞することでしか多民族国家をマネージ出来ない共産党政権の統治の脆弱さに他ならない。朝鮮半島もまた民族主義に目覚めて北朝鮮に対して宥和主義に流れ、日本に対して歴史認識を政治問題化するのは、常に党争に揺れる韓国の弱点をカバーするための方便、つまりは統治の脆弱さに根差すもので、日本人としては、我らが民族の歴史として風化させてはならないものの、今さら政治・外交の場に持ち出すのは勘弁してくれボヤくしかない(笑)。それに引き換え、台湾のなんと潔く、健気に頑張っていることだろうか(笑)。
国際秩序、とりわけ東アジア秩序の難しさは、一般には体制の違い(欧米的な自由・民主主義と、東洋的な専制の違い)で片付けられがちだが、その根っこにあるのは、ポストモダンの日本(及び欧・米)や、モダンを生きる発展途上国(台湾を含む)がある一方、古代のままを生きるかのような中国や朝鮮半島があるというように、歴史の発展段階に跛行性があることによるコミュニケーション・ギャップ、ひいては認識のミゾであり、摩擦はひとえにそこに起因すると言ってもよい。それを長い目で見れば、相互に影響を与え合い、ほぼ世界同時的な展開を促して来たのがこれまでの歴史だったが、果たして今回はどうだろうか・・・
表題の通り、台湾と朝鮮半島の間には東シナ海が横たわるが、今更そんな地理的なことを話しても仕方ない。政治的な話として、李登輝さんや台湾の人々が親日であることを、遡れば、台湾統治と朝鮮半島統治とで何が違ったのかを不思議に思うのである。
台湾は、戦前から住んでいる本省人と、戦後移住してきた外省人とが混在し、アイデンティティの分裂に悩まされ来た。私が出張で足繁く通っていた頃、中華料理の夕食の後には決まってカラオケに連れて行かれて、ここぞとばかりに覚えたての中国語を繰り出すと、北京語上手ねえ、と日本語で軽くあしらわれたものだった。それほど台湾にとって内(台湾語)・外(北京語)の溝は深かったのだろう。
そもそも台湾は、オランダ、鄭成功、清王朝、大日本帝国と、外部勢力によって支配されてきた不幸な歴史を持つ。清の時代には「化外の地」として見捨てられ、日清戦争の後、日本が植民地経営(とは言っても、欧米流と日本流では異なるのだが、とりあえずそう呼ぶ)に乗り出した頃には、感染症がはびこり、日本人がとても住めそうにない、文明から取り残された地だった。李登輝さんは本省人で、苦労の末に権力の頂点に登り詰めた話は前回ブログの通りだが、ここでのポイントは、日本統治があってこそ、国民党政権下で「政治参加」の道が開かれたと思われるところだ。
もとより日本の統治を全面的に擁護するつもりはないが、その後の国民党の統治が苛酷だったために、住民の過激なまでの反発を招いたことが影響したのは事実だろう。実際、日本の統治にも厳しい面はあったようだが、国民党の統治に代わって、日本の統治を懐かしむという逆転現象が見られたと聞く。また、李登輝さんが総統になる前後から、台湾の対中政策は開放的になり、それまでは内戦中という建前で交流が途絶えていたが、経済的な往来が頻繁になると、今度は過度な中国依存のリスクが芽生えたため、台湾の持つ産業や技術の優位性を維持するため、電子産業を保護するなど、資源配分に配慮したそうだ。さらに、教育改革(特に歴史教育)を通して、「台湾人」のアイデンティティを育んだ。ここで重要なのは、中国との関係において、いったんは認めていた「一つの中国」から、中国と台湾は別の国だと位置づける大胆な「二国論」へと舵を切ったことだ。大雑把に言えば、日本の統治を通して築かれた近代的な基礎の上に、李登輝さんが身体を張って現在に至る台湾を育てあげたということだ。李登輝さんが親日だったのは、日本(統治時代の)生まれで、その教育を受けたことばかりではなく、こうした歴史的な経緯によるものだろうと思われる。
こうして、朝鮮半島との比較で言えば、朝鮮半島に、遅くとも中国の郡県制支配が終わった4世紀以降は、まがりなりにも土着の(とは、つまり朝鮮民族の)王朝(=新羅、高麗、李氏朝鮮)が存続していたことを想起すれば、日本による植民地経営を受け入れる体質そのものに決定的な相違を生じていたと言えるだろう。かたやユーラシア大陸から若干の距離を置いてへばりつくように位置し、直接の影響を受けることが少なかった小さな島に過ぎない(という意味では日本に似ている)台湾と、ユーラシア大陸の辺境とは言え、それ以上は逃れることが出来ないドン詰まりの半島国家で、大国である中国に隣接し、常に、陰に陽に影響を受け続け、事大主義(中国やロシアなどの“大”国に“事”(つか)える)に揺れながら、それでも民族としてのアイデンティティを失うことはなかった矜持を持つ朝鮮半島とでは、生い立ちが違うのである。
日本は、中国の歴代王朝がそれほど覇権主義的ではなかった事実(いわゆる中華思想と王化思想)と、仮に圧力が強まっても朝鮮半島が緩衝地帯としてその圧力を堰き止めた事実という、地理的に極めて幸運な歴史をもつ。例外は白村江の戦いと元寇と秀吉の朝鮮出兵であろうか、1400年足らずの歴史で、たったこれだけである。今、中国が覇権主義的であるのは、近代になってから欧米の帝国主義に踏みにじられ、アヘン戦争以来の歴史の屈辱を雪ぎ、民族主義を鼓舞することでしか多民族国家をマネージ出来ない共産党政権の統治の脆弱さに他ならない。朝鮮半島もまた民族主義に目覚めて北朝鮮に対して宥和主義に流れ、日本に対して歴史認識を政治問題化するのは、常に党争に揺れる韓国の弱点をカバーするための方便、つまりは統治の脆弱さに根差すもので、日本人としては、我らが民族の歴史として風化させてはならないものの、今さら政治・外交の場に持ち出すのは勘弁してくれボヤくしかない(笑)。それに引き換え、台湾のなんと潔く、健気に頑張っていることだろうか(笑)。
国際秩序、とりわけ東アジア秩序の難しさは、一般には体制の違い(欧米的な自由・民主主義と、東洋的な専制の違い)で片付けられがちだが、その根っこにあるのは、ポストモダンの日本(及び欧・米)や、モダンを生きる発展途上国(台湾を含む)がある一方、古代のままを生きるかのような中国や朝鮮半島があるというように、歴史の発展段階に跛行性があることによるコミュニケーション・ギャップ、ひいては認識のミゾであり、摩擦はひとえにそこに起因すると言ってもよい。それを長い目で見れば、相互に影響を与え合い、ほぼ世界同時的な展開を促して来たのがこれまでの歴史だったが、果たして今回はどうだろうか・・・
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