風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

尖閣問題を憂慮する

2021-02-27 23:33:44 | 時事放談
 コロナ禍で各国が忙殺される中、いち早く抜け出たとされる中国は、公船の尖閣諸島海域への侵入を常態化してきた。この2月には、日本の海上保安庁に相当する(と言われるが実際には武装警察傘下で事実上は準軍事組織である)海警局に武器使用の権限を付与する「海警法」を施行し、実際に武器を搭載した公船を尖閣海域に侵入させた。中国は明らかに脅威のステージを上げている。
 このあたりを察したのであろう、米国防総省の報道官は数日前の記者会見で、中国に対し海警局の公船による尖閣諸島周辺の日本領海への侵入を止めるよう求め、「誤算を生じさせ、物理的な損害をもたらす恐れがある」と批判した(24日付、共同通信)。エスカレーションを本気で懸念し始めている証拠であろう。なお、このとき、記者からの質問に答える形だったとは言え「米国は尖閣における日本の主権を支持する」と、これまでの「施政権」に代えて初めて日本の「領有権」を認める発言をした。一歩踏み込んだものと注目したが、今しがたの日経ニュースによると、「日本の主権を支持する」発言を修正し、あくまで尖閣の領有権について特定の立場をとらないとしてきた従来の見解を踏襲すると表明した。な~んだ。
 日本政府は、日米安保条約第5条適用に満足せず(何しろアメリカにおいてdue processを経ることが前提であり、NYタイムズなどのリベラル派が無人の岩じゃないかと揶揄する島を守るために米軍が果たして血を流すのか?疑念は晴れない)、また中国に対して口頭で「遺憾」を示すばかりではなく、何等かの行動を示して領有権を主張することが期待されるのだが、これまでのところは中国に配慮して及び腰だ。この点に関して、元航空自衛官の宮田敦司氏が、「1978年に青嵐会議員が資金を調達し、関西の大学の冒険部の学生を核にした有志を派遣して魚釣島に手製の灯台を建設したことから始まる」という魚釣島灯台のその後の経緯を綴られており、興味深い(24日付プレジデント誌「石原慎太郎氏らが建てた『尖閣諸島の灯台』を、いまこそ強化すべきだ」)。現在、使われているのは、1988年に日本青年社が建設10周年記念として新調したもので、皮肉なことに、中国漁船や台湾漁船もこの灯台による恩恵を受けている、とある。また、灯台などの航路標識は、設置に伴って航路標識許可申請が必要だが、海上保安庁からいろいろ難癖をつけられて却下され、日本青年社から所有権の譲渡を受けていた石垣市の漁業船主協会長も所有権を放棄したことから、仕方なしに国庫帰属財産として国の管理下に置かれることになった数奇な顛末も語られる。なんだか情けない話だ。
 「海警法」の問題は既に多くの議論がなされているが、最大の(トリッキーな)ポイントは海警局という準軍事組織が「中国の管轄下にある海域」を対象とすることだろう。九段線も尖閣も当然のことながら含まれる。そこで海警局の公船の動きが法執行なのか武力行使なのかが問われることになるが、仮に仲裁裁判所などから法執行ではなく武力行使と認められ、国際的な非難を浴びたとしても、中国は、かつて南シナ海の九段線に法的根拠がないとする仲裁裁判所の判決を紙屑扱いしたように、歯牙にもかけないことだろう。あるいは香港の国家安全維持法の如く、国際合意を破っても悪びれることはないだろう。もはや中国は自らルール形成できるパワーがあることを見せつけ、自己満足に浸っている。危険な兆候である。
 「逆さ地図」によって中国側から南東方面を眺めれば、第一列島線と言われる日本列島・台湾・フィリピン群島によって、中国は太平洋への出入りを塞がれた形になる。台湾や尖閣は、言わばその風穴を開けるものとして期待されるわけだ。折しも台湾では、香港の一国二制度が破綻したのを見て、蔡英文総統への支持が高まり、中国は平和的統一が叶わないとみて、武力統一も辞さない構えである。南シナ海をほぼ手中にした中国にとって、次のターゲットは台湾と尖閣になる。台湾と尖閣は連動する。来年、北京オリンピックを控えて、今すぐに過激な行動に移ることはないと思われるが、今や米中「新冷戦」の時代の最もホットなスポットであり、日本の覚悟が問われる。
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竹島の日に思う(改)

2021-02-23 02:16:32 | 時事放談
 今日は島根県が2005年に条例で定めた「竹島の日」で、今年で16回目を迎えた。しかし日本政府はまともな対応を行って来ず、残念ながら韓国の実効支配が強まるばかりだ。まあ、日本政府としては、日本が実効支配するという意味では逆の立場になる尖閣諸島問題を抱えて(もとより日本は領土問題など存在しないという立場ではあるが)、下手に動くと中国に格好の口実を与えかねないと懸念しているのかもしれない(もっとも竹島と同じく実効支配されている北方領土問題とで異なる対応になるのは、無人島か元住民の存在があるかどうかの違いのせいと思われる)。最近は、韓国軍が、自衛隊の竹島侵攻作戦シナリオに対応する防衛作戦シナリオを想定していたという報道まであって、余程、後ろめたいのか、韓国の盗人猛々しいにもほどがある(苦笑)。
 古来、東アジアの秩序観念である中華主義(韓国は小中華)を奉じつつ、その実、古代・中世の間は中国や日本という大国に寄り添って、近代になってからはそこにロシアも加わって、常に大につかえる事大主義で生き延びて来た国である。竹島は、「武装解除をされた日本軍のいない日本海に空白ができた時、民族の夢だった領土拡大を李承晩大統領が実現した」(ある在日韓国人による)、言わば民族主義の象徴であるだけに、熱狂するのだろうか。もとより不法占拠以外の何物でもないのだが、最近は、日本に対して、伝統的秩序観念のもとで(ある意味で身内のような馴れ馴れしさで)、欧米感覚からすれば嘘にまみれたとしか言いようのない主張を恥じることがないふてぶてしさに巻き込まれて、多くの日本人と同様、私もすっかり呆れて、距離を置いている。絡んでもらいたくない、という感覚である。その中でも、辛うじて、そのハチャメチャぶりは一体どこから来るのかを理解するために、そのメカニズムに興味があって、韓国という国家(政治)を観察している。以下は最近の観察日記である。
 韓国人のことは、ビジネスでもプライベートでも付き合ったことが殆どないので肌感覚として知らないが、シリコンバレーで働く知人に言わせれば、韓国人は約束は守らないし嘘はつく、というので呆れているようだ。一説によると、約束を守らない、破ってみせられる立場こそ、地位が高く、尊敬を受けるとする奇妙な(儒教的?)考え方があるそうで、実際、最近の徴用工問題や慰安婦問題を見れば納得してしまう。このあたりは、かつてビジネスの世界で、韓国人は昼は「反日」、夜は「親日」(=ともに酒を飲んでカラオケを歌いまくって盛り上がる)と言われ、韓国流のタテマエとホンネの問題だろうくらいに思ってきたが、ここ20年ほどの間に、韓国は自らの国力に自信を持ち始め、日本に対してそのように主張できる、すなわち約束を破ってみせられる立場になったと、真剣に思い始めているのではないだろうか。
 何より歴史認識のあり方が根本的に異なる。日本人は単に歴史教育の問題と処理しがちだが、本来、歴史は民族のレーゾン・デートルに関わる本質的な問題である。これに関し、世の中には、歴史的事実の積み上げの上に歴史認識(いわばStoryとしてのHistory)を紡ぐ日本や欧米の実証主義的なあり方と、歴史認識の上位に位置する歴史観(いわゆる正史)の影響を受けて、歴史認識はアプリオリで、都合の良い歴史的事実を拾って歴史認識を補強するだけの中国や韓国のあり方と、二通りあるようだ。すなわち、「歴史的事実 → 歴史認識 → 歴史観」という積み上げ式のあり方と、「歴史的事実 ← 歴史認識 ← 歴史観」という逆方向(矢印)のあり方である。後者は、所謂「正史」観として、王朝交代の際、現政権の統治を正当化するために、前政権(例えば日本統治)の事績を完全否定するものだ(その意味では、明治期日本の薩長史観や戦後日本のGHQ史観もそれに類するものであって、日本人も注意を要する)。そして、この立場にも二通りあって、私が好きなエスニック・ジョークに仮託すると、アメリカの大学が検証したという中国の歴史教育は(個別の戦闘では日本に負け続けたがサンフランシスコ講和条約に参加できたという意味で対日戦勝国に名を連ねた中国共産党が打ち出す)「プロパガンダ」であるのに対し、韓国では(残念ながらサンフランシスコ講和では連合国の立場を認められず、というのは当たり前で、連合国に解放されただけという負い目があって、単に独善的な)「ファンタジー」だというわけだ。ことほどさように中国や韓国の儒教的世界にあって「正義」は常に(現在の)我にあるのであって、歴史的事象の是非は閑却されてしまう。これでは話は全く通じない。
 このあたりは、最近、ハーバード大学のジョン・マーク・ラムザイヤー教授がインターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクス誌に寄稿した論文「太平洋戦争における性契約」(Contracting for sex in the Pacific War)に関して、韓国のマスコミが「ラムザイヤー教授が慰安婦は売春婦だと主張した」と報道し、韓国社会が怒りに沸き返ったとされるところにもよく表れているように思う。室谷克実さんは、「韓国 半狂乱」とまで書いた。論理の世界ではないことがよく言い表されているナイスなネーミングだ。この論文は、そもそも慰安婦が売春婦だったことを立証するために書かれたものではないようだが、朝鮮人慰安婦が日本の官憲によって連行された強制性の証拠を(証言以外に)提示するわけでもなく(これまでのところ提示できていないばかりに)、ラムザイヤー教授は「親日派」「日本の戦犯企業三菱からカネをもらっている」などと人格批判され、気の毒な状況にある。おまけに、Wow!Korea紙によれば、竹島問題では国際司法裁判所での応訴に否定的なのに、慰安婦問題では国際司法裁判所で日本が敗訴する見通しと、仮に日本が勝訴しても実質的には韓国の勝訴となる見通しが、まことしやかに語られている。その論拠はと言うと、戦時下の女性に対する性暴力に厳しい視線が注がれる昨今の状況下で、仮に日本の主権免除が認められても、いずれにしても韓国の主張が認定される可能性が出て来たと、甘い見通しを持っているらしいのだ。さらに、「河野談話」(1993年)や「村山談話」(1995年)が、国際社会では慰安婦強制連行を認めた日本国の正式な立場として扱われていると韓国人は信じており、これらが誤りであることを立証するためには、韓国研究者の研究結果(慰安婦問題では「帝国の慰安婦」の朴裕河教授の研究、徴用工問題では「反日種族主義」の李栄薫元ソウル大学教授の研究)を活かして、国際司法裁判所のみならず第三国の関心を持つ人々にも知らせることが日本の対応方針になるだろうと信じているようなのだ(以上Wow! Korea紙より)。日本における慰安婦問題で秦郁彦氏らの先行研究すら知らないと見える。自らを道徳的高みに置きたい願望が「正義」にまで昇華されると、何が何でも日本は野蛮で残酷という結論ありきになる。
 数日前の国連人権理事会では、韓国外交部の次官が基調演説で慰安婦問題に言及したため、日本は2015年の慰安婦合意に反するとして反発した。相変わらずの光景である。韓国によれば、慰安婦問題の本質は紛争下で行なわれた性暴力という人権侵害だとして、悪びれる風はない。それなら慰安婦問題だけではなく、ベトナム戦争時の韓国軍人によるライダイハンについても言及するなど、一般化したらどうかと思うし、中国新彊ウィグルでは平時でも所謂「ジェノサイド」の中で性暴力がまかり通っているが、そういうところは頬かむりして、ただのご都合主義でしかない。日本では、夫婦喧嘩は犬も食わないが、韓国では、夫婦が喧嘩すると片方が家から表通りに飛び出して大声で自らの正当性を主張するのだそうである(今はどうか知らないが、伝統芸のようだ)。朴槿恵さんの告げ口外交はまさにそれだった。今回も、韓国の約束破りであり、夫婦喧嘩の如く(夫婦なんぞにしてもらいたくないが)表通りに向かって自らの正当性を訴える行動パターンそのものであり、その裏には日本より自らを道徳的高みに置きたい心性がある。
 東アジアにおける難しさは、中国にしても韓国にしても、経済成長を遂げ、自信を持つに従ってナショナリズムが芽生え、中華(韓国は小中華)意識という原点に回帰しつつあるところにあるように思う。そこでは日本は依然として東の夷狄に過ぎなくて、蔑視の対象でしかない。実際、ペナン駐在の頃、インターナショナル・スクールで知り合った韓国人のお母ちゃんに、日本人って野蛮じゃないのね!?と真顔で感心されて、驚かされたものだった。韓国における歴史教育はいくら欧米感覚で「ファンタジー」と揶揄されようが、現実の問題として再生産され、生き続けているのだ。
 そのため、残り任期が1年3ヶ月となった文在寅大統領が、北朝鮮問題をなんとか前進させたい一心なのであろう、日本に歩み寄ったかに見える発言をしたと報道されるのは、2015年慰安婦合意を仲介した当時のアメリカ副大統領が大統領になって、日和っているだけとの観測の通り、ただの方便であって、文大統領が心変わりしたとは思われない。なにしろ文大統領が最近、外交部長官に任命した鄭義溶氏は、トランプ大統領(当時)に北朝鮮が非核化の意思があると伝え、金正恩委員長(当時)に経済制裁解除への淡い期待を抱かせた二枚舌外交の張本人である。それで米朝双方から信頼を失い、仲介役失格の烙印を押されたことなど、もう忘れてしまったかのような大胆不敵さは、理解不能である。
 彼ら独自の「正義」を振りかざして反省することはなさそうに見える国とまともに付き合うのは、簡単ではない。
(注)以上は国家(政治)としての韓国について触れたもので、韓国人との付き合いは別次元であることは言うまでもない。
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全豪オープン

2021-02-20 22:49:59 | スポーツ・芸能好き
 全豪オープンテニス女子シングルス決勝が行われ、下馬評通り、大坂なおみ選手が優勝した。グランドスラムを制したのは、2018年と昨年の全米オープンと、一昨年の全豪オープンに続いて4度目で、すべてハードコートだった。しかも、準決勝のセリーナ・ウィリアムズ、決勝のジェニファー・ブレイディと、屈指のパワー・プレイヤーを退けての勝利であり、4大大会の準々決勝以降は12連勝、4回戦さえ突破すれば負けなしと、彼女の強さが際立つ。これで大会後の世界ランキングは2位に浮上する。
 映像を見たわけではないのだが・・・一撃で決めるわけではなく、相手が嫌がることを考えたリターンと、威力あるファースト・サーブに加えて、変化のあるセカンド・サーブが効いたと言われる。コロナ禍でツアーから遠ざかっていた間、体幹を鍛え、筋肉の量を増やしたことに加え、メンタル面でも一皮剝けたようだ。かつての不安定な面影はもはやなく、安心して見守っていられる。
 今大会では何より、三回戦の第二セット、相手にブレークポイントを握られたピンチの場面で見せた余裕が話題になった。以下、Huffpostから。
 「・・・観客席からの『ナオミ、足に蝶が止まっているよ!』という声に驚いたように足を止めた。大坂選手が手を伸ばすと、足に止まっていた蝶は離れたがすぐ戻ってきた。すると大坂選手は蝶を手に乗せて、コートの外にある箱に運んだ。しかし蝶は大坂選手から離れるのを拒否するように、再び戻ってきて今度は大坂選手の顔に着地。それでも大坂選手は嫌がるそぶりも見せずに、顔に止まった蝶を手で優しくつかんで元に戻した・・・」
 コート外で何かと注目を集める上に、コート内でも何気ない優しさを見せて感動を呼ぶ・・・素晴らしい。しかしテニス・プレイヤーは、コート上で活躍してこそ。クレーコートの全仏オープン、芝コートのウィンブルドン、そしてその先にあるゴールデン・スラム(グランド・スラム4大会とオリンピック優勝)を期待したい。
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森会長の辞任

2021-02-14 19:47:06 | 時事放談
 東京オリパラ大会組織委員会の森喜朗会長が辞任された。後任人事の透明性に問題があったことも拍車をかけた。予想されたこととは言え、ここまで来たかと思うと感慨深い。まあ、今さら過ぎたことでもあり、このブログでは差し障りのあることを書こうと思う(笑)。
 正直なところ、コロナ禍に伴う緊急事態宣言下のストレスに晒されたポピュリズムの酷さ、と言うより「怖さ」を見せつけられた思いでいる。言葉狩り、近世ヨーロッパで言えば魔女狩り(裁判)、スケープ・ゴート・・・言い方はいろいろあるが、ちょっと行き過ぎではなかったかと率直に思う。センセーショナリズムを追い求めるメディアの暴走と、感情に流されやすい世論の危うさと、そんな空気を読むばかりの政治の信念のなさと。もっとも、毎日新聞と社会調査研究センターの世論調査によると、森さんの「辞任は当然」69%、「辞任する必要はなかった」21%、「わからない」10%だそうで、天邪鬼の私は、こういう時はだいたい少数派になってしまうので、私の妄想などアテにならないことをお断りする(笑)。
 特にメディアの責任は重いように思う。例えば、アメリカのサキ報道官は「(森会長の女性蔑視発言に関して)まったく容認できるものではありませんでした」と語ったが(FNNプライムオンラインなど)、海外のメディアや関係者が、どこまで森会長の発言を仔細に読み込んでいるかは甚だ疑問だ。前回ブログで書いたように森会長発言は問題あるにしても「女性蔑視」と捉えるのは典型的なフェイクだと思うが、海外のメディアは、日本のメディア報道を引用するか、日本の識者にコメントを求めるか、日本の識者や日本人記者が寄稿することが多くて、結果として「女性蔑視」が世界に拡散してしまったのではないかと思う。そして海外の報道は日本の報道の「鏡」でしかないのに、日本のメディアはそれを有難がって、更に拡大再生産する・・・日本人はいまだに海外からどう見られるかを気にする心象と相俟って、日本のメディアが大騒ぎして(その前提には、国民が大騒ぎしているからだが)、海外のメディアを巻き込んで、騒ぎを大きくしているだけのように見える。
 世論の責任も重い。このコロナ禍でオリパラ!?という否定的な心象が背景にありそうだ。そもそも世論は信頼できるようで、信頼できない(が、信頼できないようで、存外、信頼できるものでもある)。正確に言うと、短期的には間違うことが多い(が、長期的にはそれほど間違わないのではないかと、日本のようにある程度成熟した民主主義国についてはそう思う)。今回の森会長辞任や、前回の緊急事態宣言下でツイッターデモ500万人を集めたとかいう検察庁法改正案の問題は、程度の差はあるが、短期的に血迷った類いではなかったかと、突き放してそう思う。振り返れば、2009年の政権交代のとき、こんなんでええんかいな・・・と呆然自失となった。私は海外駐在から帰国したばかり(三ヶ月以内)で、一時的に選挙権がなくて無力感に囚われたのだが、別に私の見識云々ではなく、単に私は海外にいて日本の「空気」を理解していなかったので、冷静さを保ち得たのだろうと思う。案の定、「政権交代。」は三年で挫折した。世論は一時的に見誤り、それに懲りて、その後は野党を見る目が厳しくなって、安倍・長期政権に繋がった(その良し悪しは別にして)。もっと遡れば、戦前の日本もそうで、一時的に(マスコミとともに)血迷って、それに懲りて、戦後はちょっと行き過ぎではあるが・・・恐らく、このあたりが民主主義の弱みであり、強みでもあって、短期的には不安定になるが、長期的には安定するものだと思う。
 このあたりは、海外に目を転じても、そう思う。昨今のコロナ禍対応の欧米・民主主義国は、短期的な混乱の極みにある。他方、中国の全体主義的権威主義は、悔しいことに、短期的には強権によってコロナを封じ込め、安定している(とは言え、長期的にどうなのか・・・と強がってみたところで、詮無いことではある)。アメリカの民主主義は、孤立主義と国際協調主義の間を振り子のように揺れると言われるように、短期的に不安定なのは、最近のオバマ→トランプ→バイデンと、振り子のように極端に振れるのを見ても、よく分かる(が、私はなおアメリカの長期的な安定や強さを信じている)。
 こうして、短期的=「経験」、長期的=「歴史」と置き換えるのは牽強付会に過ぎるが、「経験」に頼っていては見間違うので「歴史」に学ぶべしと言われたビスマルクの「愚者は経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ」といったような格言に通じるように思う。実際、歴史は知恵の宝庫だが、奥が深く、前提とする環境や諸条件が違い過ぎるため、本当の意味で「学び」を得るのは難しい。歴史から学ぶのは、豊富な「経験」を踏まえた良質な「想像力」を備える「賢者」にしか出来なことだろうと思う。ついでながら、マーク・トウェインは「歴史は繰り返さない。が、韻を踏む」というようなことを言われた。この「韻」こそが「学び」のポイントだろう。
 暴走してしまったので閑話休題。短期的には、メディアにしても世論にしても、アテにならないものだと身構えた方がよいのではないだろうか。ちょっと極端ではあるが、そもそも人の世で100%クリーンということはあり得ない。8割か、せいぜい良くて9割が、まともな気持ちで遂行されれば、よしとすべきではないかと、50年生きて来た私は諦めている。人には理性だけでは収まり切らない「欲」や、与えられた役割の裏に隠れた「私」があるからだ。今回のケースでは、不幸にして1割か2割のいかがわしさから、人々の反発を誘引してしまった側面があるように思う。いや、世の中のポリティカル・コレクトネスが進んで、私のようないい加減な老人が追い付いていないだけかも知れない。あな、恐ろしや・・・。
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森会長の失言

2021-02-11 12:03:39 | 時事放談
 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の「女性を蔑視したと受け取れる発言」をしたことが物議を醸している。この状況には、行き過ぎを感じて、私は何重かの意味で苦々しい思いでいる。
 森会長はそのとき、40分も喋ったそうで、女性より森会長の方が余程お喋りじゃないかと思うが(笑)、その全部は確認できず、該当部分500字余りをスポニチアネックスの記事で見た(2月4日付「森喜朗会長の3日の“女性蔑視”発言全文」)。確かに、多様性を受け入れられず、女性を差別する発想の発露であって、「日本に深く根差したジェンダー問題」(米外交専門誌「ザ・ディプロマット」・・・時事通信の記事から)と受け止められるであろう。根深い問題ではあるが、正直なところ、森会長や一部の日本人に残ること、などと言ってしまえば異論が出るかも知れないが、多様化する社会への不適合の残滓と言えるもので、「あるある」の世界ではあるが、ほれ見たことかと一般化されることには抵抗したいし、少なくとも私を一緒にして欲しくないという苦々しい思いでいる。私だけじゃなく、私たち男女雇用機会均等法以降の世代は似たような思いだろうし、違和感は年齢が下るにつれて強くなるだろう。
 現実問題として、日本は今なお、世界経済フォーラムが発表する「ジェンダー・ギャップ指数2020」(2019年)で、G7の中で最下位の121位という惨憺たる結果である。実際に、男女雇用機会均等法の初期世代がどうなったかというと、身近なことしか分からないが、水が合わなかったのか辞めて行った女性が多いし、学生時代の友人の中には優秀でありながら専業主婦の女性も多い。しかし私の周囲には小さいお子さんを抱えながら活躍する時短勤務の女性が増えたし、在宅勤務の浸透によってより働きやすくなるだろうし、いよいよ世代交代が進んで目に見えて改善して行くことだろう。人の意識のこと、人の社会のことだから制度的裏付けも必要で、もどかしいがそれなりに時間がかかる。
 あらためて森会長の発言を眺めてみると、女性「差別」には違いないが、女性「蔑視」の要素はなさそうだ。森会長の気持ちを敢えて忖度すれば、所謂男性社会における阿吽の呼吸が通じない女性という異性に対する苦手意識か、煙たく思う気持か、嫌悪感、といったところだろう。櫻田淳教授はfacebookで、日本社会の何処にでもいた「村のまとめ役・町内会の顔役・中小企業の社長」の「別の姿」なのであろう、と呟いておられる。まさに「ムラの掟」に拘る「ムラの長老」のような古色蒼然とした印象だが、女性「蔑視」とはちょっと違う。それなのに多くのメディアや評論家諸氏が軽々しくステレオタイプに女性「蔑視」発言だと大騒ぎすることには苦々しい思いでいる。
 なにしろ、日本の大騒ぎを見たのであろう海外のメディアなど(あるいは海外メディアなどに寄稿する日本人など)から、世界に向かって「金メダル級の女性蔑視」(国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ)などと鸚鵡返しに論評されるのは心外ではないか(英語でどのような表現をされたのか知らないが)。もっとも、「(日本に)はびこる女性差別をあらわにした」(同)、「日本の古いジェンダー観」(仏紙ルモンド)が残っている証しなどと、あれこれほじくり返されるのは致し方ない。それを嵩にきた日本のメディアが、ブーメランなのに、さも海外でもこんな風に報道されているなどと、これ見よがしに他人事のように報じるのはちょっと苦々しいし、野党のセンセイ方が、ここぞとばかりに政権批判、つまりはステレオタイプに政治問題として利用することにも、苦々しい思いでいる。
 問題のひとつは、東京オリパラ大会組織委員会・会長というポストの発言にあるのだろう。オリパラ精神に反するという批判があって、会長ポスト辞任を求める動きが強まっているが、「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学」 「オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」 「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」であって、性別はその内のひとつの要素に過ぎない。森会長の老害と露骨に非難する声もあって、確かに重大な「失言」だったに違いないし、余りに軽率でもあって、反省が足りないと言われるのも分からなくはないが、SNS全盛の時代に強まる「言葉狩り」のようなバランスを欠いた批判の嵐は、スポーツマンシップに悖るのではないかと、天邪鬼な私は、ちょっと苦々しい思いでいる。聞くところによると、7年前、森さんは「頼まれたから、『無償』を条件に五輪組織委会長を引き受けた。規約上、報酬ゼロにはできないと知ると、自らの報酬をアルバイト職員と同額の最低額にし、その全額を積み立て、寄せ集めの組織委職員が一つになれるようにと、皆の懇親会費に充ててきた。そうして7年間、国のため、五輪のために無償で、しかも癌と闘いながら走ってきた」(有本香さん)そうだ。志や良し、だからと言って免責されるものではないが、オリパラ開催だけではなく、ラグビー・ワールドカップ開催にも尽力されたことが思い出され、人間社会のことだから奇麗ごとばかりではない利権が蠢く世界のこととは言え、スポーツを愛する思いは尊い。パンデミックで、しかも緊急事態宣言が出る中で、私にしても、関係する人々にしても、ストレスによって多少なりとも過剰反応しているのではないかと、冷静な気持ちに戻って、ちょっと反省してみたりする。
 一番の問題は、飲み屋で内輪のぶっちゃけ話をするわけじゃあるまいし、報道を前提とした記者を前にして、政治家、中でも首相を務めたような公的存在としてより責任ある立場の方(ここでは森会長だけでなく、麻生副総理などもイメージしている)の、放言・失言・暴言の類い、もはや愛嬌として見過ごすことが出来ないコミュニケーション能力の低さ、あるいはコミュニケーションにおける意識(センシティヴィティ)の低さではないだろうか。ここでは棒読みと批判されるスガ首相もついでにイメージしている。もっとも、棒読みを感情が籠っていないなどと感想を述べるならまだしも批判するのは的外れだが(まあ、「失言」を避けるため、少なくとも正確さを欠く発言によって突っ込まれる事態を避けるため、官僚の作文に従う気持ちも分かるが)、コミュニケーションは、発信することに意味があるのではなく、どのように受け止められるかこそが問題である以上、政治家たる者、公人としての社会性とその影響力の大きさに配慮して、もう少し自分の言葉で、かつ時代精神とでもいうべき世の中のスタンダードは変わることに自覚的に、語って貰いたいものだ。昨今のようなパンデミック時のクライシス・コミュニケーションは特に重要で、メルケルさんのような欧米レベルとまでは言わないまでも、そろそろ日本のリーダーも、スキルとしてのコミュニケーションを、その心構えを、もうちょっと訓練して貰いたいものだと、苦々しい思いでいる。
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キムチ起源論争

2021-02-07 22:43:18 | グルメとして
 私は、韓国料理と聞くと、懐かしさとともに感謝の念を抱く。四半世紀前、ボストンに駐在していた頃、外食と言えば、和食に近い韓国料理がお手軽で、足繁く通ってお世話になったからだ。和食レストランが近所(独立戦争で有名なレキシントン・コンコードの戦いのコンコード)に出来たというので喜んだのも束の間、寿司主体で高級の部類に属するため、たまに贅沢をする時にしか使わなかった。当時は乳飲み子を抱えて、マクドナルドでは寂しいし、大味のステーキでは胃がもたれるし、シーフィードや中華料理は毎週だと飽きてしまう。移民の国アメリカとは言っても、半ばアジアとも言える西海岸とは異なる、東海岸の、ハリウッド映画がヨーロッパ・ロケの代用とするようなニューイングランドと呼ばれる地の一コマである。在韓米軍のお陰で、韓国人女性と結婚する兵士がいて、米軍基地の近くには韓国レストランが多いのだと聞いた。マレーシアに駐在していた頃も、どうしても和食が寿司・天婦羅など高級食と扱われる中で、韓国料理は外食での定番のひとつであり、付け出しの小皿が5~6皿、キムチ食べ放題なのが嬉しかった。
 そんなわけで、前置きが長くなったが、韓国と中国の間で俄かにキムチ起源論争が勃発したと聞くと、有名なソメイヨシノをはじめ、武士道、天皇、神道、相撲、剣道、茶道、歌舞伎、俳句、和歌、芸者、忍者、日本建築、神代文字、扇子、折り紙、寿司、刺身、納豆、天照大神、卑弥呼、徳川家康、錦鯉、秋田犬に至るまで、また中国との間でも、漢字、石碑、印刷技術、鍼灸、孔子、秦の始皇帝まで、何でも韓国発祥だったり韓国人にしてしまう「ウリジナル」の韓国ではあるが(笑)、キムチはやっぱり韓国だよなあ、と思ってあげたくなる。
 発端は、昨年11月、中国四川省の塩漬け発酵野菜「泡菜(パオツァイ)」の製法や保存法が国際標準化機構(ISO)の認証を受け、中国共産党の機関紙・環球時報が「キムチ宗主国の屈辱」と報道したことで、韓国の人気モッパン(飲食の様子を撮影した動画)ユーチューバーHamzyさんが「中国人がキムチやサムなどを自国の伝統文化だと主張する」と反応すると、すべてのコンテンツが中国のSNSや動画共有プラットフォームから突然削除されたあたりから(金遥楽さんによる)のようだ。何と言っても3000年だか4000年だかの歴史と独自文明を誇ることが出来る中国のことだから、韓国を挑発する(揶揄う)のは、単に「ウリジナル」韓国への意趣返しであろう。
 私自身は幸か不幸か韓国人と仕事をした経験はないに等しいが、一度、韓国系企業の駐在員と食事したときに、韓国人は子供の頃からキムチを食って平気なのかと聞いたら、いや、韓国人でも子供の頃は辛いものは苦手だと笑っていた。
 ムキになる韓国の地理的・歴史的な生い立ちは気の毒だと思う。しかし、たかがキムチ(されどキムチ)である。日本のラーメンや焼き餃子は中国が発祥だし、カレーはインドが発祥だが、今や日本の食事には欠かせないほどの存在感で大いに楽しませてもらっている・・・というように、文化は伝播し、行く先々の土地で独特の発展を遂げるものであって、どちらが先などと目くじらをたてるほどのものではないように思う。
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緊急事態の延長

2021-02-04 22:01:52 | 日々の生活
 緊急事態宣言がもう一ヶ月延長されることに決まった。実際、宣言発出後10日ほど経つと顕著に感染者数(陽性反応者数)が減り始めた。しかし、感染の水準は依然、格段に高く(感染者数は前回4月と比べて一桁多い)、医療の逼迫が続いているため、もう暫く様子を見ることになったようだ。
 因みに、宣言発出後の感染者数の減り具合いについて、前回と今回とを比較してみた(添付・上のグラフ、相変わらずヒマなこと)。絶対数で一桁違うし、前回は得体の知れない新型コロナに対する恐怖から緊張感と行動変容は桁違いだっただろうし、それにしては前回は国民の備えは今回ほど高くなかっただろうし、そもそも同じ基準で感染者数が把握されているのかも疑問で、状況が違い過ぎて比較にならない気もするが、たまたま・・・かも知れないが、今のところほぼ同じような割合で抑えられている(宣言発出日をDay 0として、その日の感染者数を基準に、その後の推移を百分率表示)。なお添付・下のグラフは、毎度の、日々の感染者数・重症者数・死亡者数の推移である(前後三日間、計7日間の移動平均)
 いくつか思うところを。
 添付・上のグラフから・・・医療の逼迫は、前回から一桁多い(14倍ほど)水準で宣言が発出されたということは、それなりに備えは進展していたことになる(それでも、欧米諸国より一桁少ないレベルで逼迫が懸念されるようでは、依然、見劣りするのは事実だが)。
 添付・下のグラフから・・・今回は第三波と言われるが、重症者数の推移を見ると、二度の山があって、なんだか複合的である。変異株のせいかどうかは分からない(とは以前のブログでも述べた)。
 この第三波はGo To トラベルのせいだと言われるが、正確には「密」の機会が増えたせいだと言うべきだろう。Go To トラベル(それにしてもこの不正確な英語は何とかならないものか 笑)のせいだと、出掛けるのを推奨するのが悪いと言うならば、日々の通勤電車のせいだとも言わなければならないが、そうではないことからすると、ためにする政権批判でしかないように思う。いずれにしても、諸外国、特に権威主義国家でロックダウンしても抑えきれないのを見ていると、日本で今さら「ゼロ・コロナ」など非現実的で、それなりに経済を回しながら(アクセル)、医療逼迫すると引き締める(ブレーキ)、やはりハンマー&ダンスを繰り返すのが現実的なのだろうと思われる。
 これに関連して、北海道大学人獣共通感染症リサーチセンターの喜田宏特別招聘教授が呟いた私的意見が、ちょっと気になっている。曰く、「・・・実は、鳥インフルエンザウイルスの場合は、水を介して鳥に感染するのが主だが、感染した鳥を食べたカラスやアザラシが全身感染して死んでいるケースを何回も目撃した。個人的な感触だが、飛沫感染より胃に入ったほうが重症化するような気がする。だから、ウイルスの付いた手で食事をしないよう手洗いは重要だと、知人には伝えている・・・」(1月27日付 東洋経済「感染力高い変異種の病原性『弱いはずがない訳』」)。気がする、とおっしゃるが、この勘は当たっていそうな気がする(笑)。いずれにしても食事中は留意すべきだろう。
 数日前の日経・春秋が、『孤独のグルメ』を例に引きながら、全国各地の飲食店では食事中の会話を控える「黙食」への共感が広がりつつあると語っていた。夜の会食が良くないのであれば昼の会食も良くないのは道理で、それでも夜の会食をターゲットにして、幼稚園児じゃあるまいし人数制限までするのは、夜、だらだら飲むときはだらだら食うので、マスクをいちいち着脱していられないからだろうと理解するが、昼の外食中だって、食べながら喋っているグループがいると、気になって仕方がない。飲食店を救うためにも、そして私たち自身を守るためにも、マスクを外して食べる間は「黙食」とするのを当面のニューノーマルとしたいものだと思う。
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