コメント
常盤は美人の上、とても賢い人だったのでしょうね!
(
yukariko
)
2010-03-17 23:42:50
三人の子供の命を助けたのは清水寺の観音の御利益(ごりやく)とも常盤が日本一の美人であったためともいわれるとお書きですが、とても賢い人という印象ですね。
見目かたちが美しくて助けたいと思っても、話の持って行きよう一つで相手の対応はガラッと変わってくると思います。
清盛の好き心に助けられたにせよ、まず九条女院の元に参上して庇護を願い、その権威を助けにして身ぎれいななりで清盛に会い、子供の命も母の命には代えられないと言って、清盛以外の武士たちの同情をも引き出しますね。
清盛の娘を産んだ後の再婚も以前の義朝よりずっと身分の高い貴族の北の方として密かに義朝の子供達をも影で支援し、異父弟妹を育て上げて充分な人生を送った訳だから、恐ろしい有為転変には出会ってもこの時代としては見事な人生を全うされたのですね。
日本一の美女ながらそれに頼らず、また機知と才覚を表には出さず、その後も貴族社会での見事な生きざまは本当に立派ですね。
お返事が遅くなりすみませんでした
(
sakura
)
2010-03-20 11:06:23
常盤が賢い人といえば、「『平治物語』によると、平家は常盤母子の行方を知ることができず、その代わりに常盤の母が責め立てられたという。これが事実とすればおそらく相当の期間、常盤は隠れつづけることに成功したに違いない」(義経登場・保立道久)と書かれていますから
2月初めに捕えられた頼朝が、宗清の邸にとめおかれ、処刑されずに弟希義とともに流罪となりますから、常盤はこのような情勢を判断して出頭したのかも知れません。当時、皇族・貴族・寺社などに仕える人々は、主人に断ってから自分の身を処し、また主家に断りなく家来筋を勝手に逮捕することはできないという慣習があったようです。かって常盤は、九條女院に仕えていましたから、清盛も女院の立場を考えると、常盤を乱暴には扱えなかったと思いますし、女院にしても、以前自分に仕えていた者が長旅で汚れた衣装のまま、六波羅へ参上させることはできなかったのでしょう。
この後、清盛は最上級貴族への道に続く後宮組織の役人・九條院呈子の皇后宮職の権大夫に任命されています。
九條院呈子は「平家物語」(二代の后の事)に登場する多子(待賢門院の実家である閑院流徳大寺公能の女)と近衛天皇の后として競い合う関係にあった人です。12歳で元服した鳥羽院と美福門院の息子近衛は、その年多子、呈子という二人の后を迎えています。呈子の父伊通は、娘の後宮を美女たちで飾り立てたかったのでしょう。
常盤の再婚相手一条長成の家系は、先の多子の徳大寺家と歴代にわたり深い縁続きの家柄、また奥州平泉藤原秀衡の岳父基成にもつらなる家系です。この辺から義経が平泉へと出発した事情が読めるようです。
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見目かたちが美しくて助けたいと思っても、話の持って行きよう一つで相手の対応はガラッと変わってくると思います。
清盛の好き心に助けられたにせよ、まず九条女院の元に参上して庇護を願い、その権威を助けにして身ぎれいななりで清盛に会い、子供の命も母の命には代えられないと言って、清盛以外の武士たちの同情をも引き出しますね。
清盛の娘を産んだ後の再婚も以前の義朝よりずっと身分の高い貴族の北の方として密かに義朝の子供達をも影で支援し、異父弟妹を育て上げて充分な人生を送った訳だから、恐ろしい有為転変には出会ってもこの時代としては見事な人生を全うされたのですね。
日本一の美女ながらそれに頼らず、また機知と才覚を表には出さず、その後も貴族社会での見事な生きざまは本当に立派ですね。
2月初めに捕えられた頼朝が、宗清の邸にとめおかれ、処刑されずに弟希義とともに流罪となりますから、常盤はこのような情勢を判断して出頭したのかも知れません。当時、皇族・貴族・寺社などに仕える人々は、主人に断ってから自分の身を処し、また主家に断りなく家来筋を勝手に逮捕することはできないという慣習があったようです。かって常盤は、九條女院に仕えていましたから、清盛も女院の立場を考えると、常盤を乱暴には扱えなかったと思いますし、女院にしても、以前自分に仕えていた者が長旅で汚れた衣装のまま、六波羅へ参上させることはできなかったのでしょう。
この後、清盛は最上級貴族への道に続く後宮組織の役人・九條院呈子の皇后宮職の権大夫に任命されています。
九條院呈子は「平家物語」(二代の后の事)に登場する多子(待賢門院の実家である閑院流徳大寺公能の女)と近衛天皇の后として競い合う関係にあった人です。12歳で元服した鳥羽院と美福門院の息子近衛は、その年多子、呈子という二人の后を迎えています。呈子の父伊通は、娘の後宮を美女たちで飾り立てたかったのでしょう。
常盤の再婚相手一条長成の家系は、先の多子の徳大寺家と歴代にわたり深い縁続きの家柄、また奥州平泉藤原秀衡の岳父基成にもつらなる家系です。この辺から義経が平泉へと出発した事情が読めるようです。