コメント
 
 
 
通り過ぎてしまいそうな場所に碑が (自閑)
2016-03-08 20:43:34
sakura様
弓流しの碑は、お写真を拝見しますと、ついうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に有るのですね。
義経は、没落した清和源氏の名を高め、己が行為を後世への源氏の恥とならないようとかなり苦心した事が伺えます。
後白河院からの任官も、源氏の名を高め、兄弟の頼朝も喜んでくれると思ったから受けたかと。頼朝にとって、ただ利用されるだけで、統制を乱すだけと映ったかと。結局、頼朝は母を苦しめた常磐御前と其の息子達が憎かったかと思う次第です。
平家は、この時源氏側が小数だと分かったはずです。船から押し出せば本体は、主力部隊は戦に出払ったとは言え、圧倒的な軍を安徳天皇の守護として残して十分戦えたはずと思います。九州で味方と思った連中から追い出された訳ですから。
歴史は何時も疑問を投げ掛けてくれますね。
 
 
 
ご推察の通りです。 (sakura)
2016-03-09 15:36:46
弓流しの碑は小さなものですし、説明板は通りからのぞき込まないと見えません。

道々に火をかけながら義経は進軍してきたので、
平家は義経勢がまさか船五隻分の兵とは思わなかったのですね。
渡辺の津から出航した義経勢150騎、途中で合流した
兵をいれてもたかだか知れています。平家は屋島に残ったのが
千騎としても、源氏の数倍の軍団がいたことになります。
思いもかけぬ陸路からの急襲に大将の宗盛は、
大軍に襲われたと勘違いし緒戦で失敗しました。

平氏追討に大活躍した義経は、平家滅亡後、僅か4年で短い生涯をおえましたね。
頼朝の冷酷なまでの仕打ちに世の同情が義経に集まるのは当然のような気もします。
義経と頼朝の相剋の理由はさまざまに云われています。
自閑さまの「常磐御前と其の息子達が憎かったか思う
次第です。」は興味深い御説ですね。
そんなところに隠された真実があったのかとも思ったりします。
天下を取ると兄弟は敵になることが多いといいますから。

 
 
 
なかなか気がつきませんでした。 (ひろ庵)
2016-03-09 21:55:30
義経の弓流しの跡、場所は本当に見過ごすようなところにあり、地図には載ってるのですが、どこかな?といった感じでした。今は陸地になっているのでそれだけ感慨がないのでしょうか。「なんや」という気持ちでした。
まあ、失礼なことですね。
 
 
 
いまひとつ感慨がわきませんね。 (sakura)
2016-03-10 08:39:26
この辺りは埋め立てが進み、当時と地形が大きく変わってしまいました。

弓流しの跡は、真念のお墓がある洲崎寺のすぐ近くにありますが、
ひろ庵さまは、この寺を出発し五剣山に登られたのですね。
「お疲れさまでした。」という言葉しか出てきません。
 
 
 
実際に歩かれたひろ庵様が書かれているように… (yukariko)
2016-03-11 22:31:54
絵巻物では馬の腹近くまで海水が来ている深さに平家方は船で熊手などでひきよせようとしているなので、「弓流し跡」やその碑は当然海岸べりにあると想像しますよね。
お写真を拝見すると、道の途中の少し空いた場所に置かれていますね。
今まで見ていた碑が皆大きくて立派だったから余計に『これなの?』と思われたことでしょう。
「チェックポイント3」と書かれていなかったらそれこそ見落としそうですね。
 
 
 
当時を思い起こすには… (sakura)
2016-03-12 15:20:24
かつて入江の水際であった一帯には、屋島合戦でよく知られる
エピソードを伝える史跡が沢山あります。

しかし、近世の埋立てにより、ほとんどの史跡が
今は陸上にありますから、当時の様子を偲ぶのには、
『平家物語絵巻』や『源平合戦図屏風』などが視覚的でわかりやすいです。
 
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