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建部大社が滋賀一宮とは知りませんでした (yukariko)
2010-02-20 11:18:39
昔の国々の中でそれぞれ一番位の高い神社が一宮と呼ばれるのですね、近畿でさえどの神社がそれに当るのか知りません。
今回の建部大社も全く知りませんでした。
滋賀は日吉大社かな?なんて思っていました。
とても立派なお宮ですね。

山城の国は上賀茂・下鴨神社(正式名称は違いますが)摂津の国は住吉大社と聞くと納得しましたが。(と座摩神社…これも不思議)

そのご祭神の由来を詳しく書いて下さっているので
源氏の守り神に配流の途中にでも参籠して行きたいと願った気持が分かります。

でも護送した宗清の人道的な扱い方や平氏の一族などに監視されながらではあっても源氏の勢力下のせいか、伊豆の配流地でも静かな、でも比較的自由な生活を20年間送れたのは、頼朝の母系が密かに後援を依頼した、平氏でも力のある池禅尼やその息子達の勢力がにらみを利かせていたせいもあるのでしょうか?
そしてここで力を蓄えた?頼朝が北条政子と結婚する事によって北条氏を後ろ盾に旗揚げをして、後の逆転に繋がる訳ですね。

TOP写真の蛭ヶ小島公園で富士を仰ぐ頼朝と政子像を
『小島じゃないんだ!』と眺めました(笑)
蛭が多い湿地帯だったのですね。

はるか昔に千葉県勝浦近辺を歩いた時に日蓮の旧跡地以外に、わざわざ友人と電車を乗り継いで頼朝が住んだ蛭ヶ小島だと言われた小さい島を見に行った事があるので、あの観光案内は何だったのだと思案しています。
頼朝は旗揚げの時に安房の国に上陸しているだけですよね(笑)
 
 
 
仁右衛門島でしょうか? (sakura)
2010-02-21 12:14:27
治承4年挙兵した頼朝は敗れ、真鶴崎から海上に出て安房に上陸。ここから頼朝は千葉県勝浦の南方、鴨川市太海浜から望む太平洋に浮かぶ島に渡り洞窟に身を潜めていた。という伝説があります。
この時頼朝をかくまったのがこの島に住む仁右衛門。のち彼は頼朝から褒美として島一帯を与えられたといいます。Yukarikoさんがいらっしゃったのはこの島かも知れませんね。

建部大社が近江国一の宮ということは由緒書きを見て知りました。立派な社です。
美夜受比免命(みやずひめのみこと)は日本武尊の死後、草薙の剣を熱田に祀ります。熱田神宮の始まりです。神宮の傍には美夜受比免命の墳といわれる断夫山古墳、日本武尊の白鳥稜があります。(日本武尊の御陵はあちこちにありますが)頼朝の母の実家とつながりますね。
この時代、勢多から草津までは東海道・東山道の共通の街道で、勢多橋の東詰には勢多宿、建部大社の南には勢多駅があり街道は大勢の人が行き交いこの社も沢山の参詣者で賑わったと思います。
座摩神社は大川の南側の断崖の上に祀られていましたが、大坂築城のとき、東区渡辺町へ遷されています。現在の石町にあるお旅所はそのあとを残すものだそうです。
頼朝の流人時代のことは詳しくは分からないようですが、おっしゃるようにそう窮屈な生活ではなかったようですね。
狩野川中洲に一つだったといわれる蛭ヶ小島の付近には、江戸時代になって蛭ヶ小島の碑が建てられ現在は一帯が公園になっています。
頼朝はここからの僅かな収入と乳母や母方叔父の援助で生計をたてていたようです。平治物語によると池禅尼が春秋の衣装を届けるとありますが、これは史実としては確認できないようです。しかし池禅尼が何らかの援助の手を差し伸べたということは推測できるのではないでしょうか。
 
 
 
ありがとうございます仁右衛門島です! (yukariko)
2010-02-21 22:06:33
20数年前に千葉に引越したテニスのペア相手と連れ立って房総半島一帯を地図を片手にあちこち歩きました。
鴨川から電車で小さい駅に行き、歩いて太平洋に浮かぶ小さな島の手前の海岸まで行きました。
確かに島の名前と同じ名の持ち主が住んでおられて、頼朝が隠れていた洞窟を見たりすると渡船は夕方5時までなので帰れなくなると言われて、口惜しい思いで渡るのを諦めて民宿に戻りました。

その島の記憶が蛭ヶ小島とごっちゃになってしまっていました。

名前を書いて貰ってぱっと思い出しました。
本当によくご存知ですね。
その記事がどこかにないかと探したのですが見つけられなかったのです。
ありがとうございました

 
 
 
やはりそうでしたか (sakura)
2010-02-22 17:15:16
平家物語頼朝挙兵のページにこの島のスクラップを挟んで手許においていました。
お友達を訪ねられたそうですが、遠いところまでよく行ってこられましたね。
地図を開くと南房総の東側一帯は国定公園に指定されています。きっと美しい景色が続く海岸線なのだと思います。
対岸からも仁右衛門島は一望でき、多い時には年間十数万人が渡ったと記事に書かれています。頼朝の敗走ルートは真鶴から海路、安房猟島(鋸南町龍島)に逃れ房総半島の西岸沿いに北上し鎌倉に入ったことが資料に見えます。
後日仁右衛門島について調べてみます。
 
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