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熊野信仰はすごかったのですね。 (yukariko)
2019-04-08 10:48:28
平氏の隆盛のもと「平治の乱」以後特に盛んになった熊野信仰は後鳥羽上皇の熊野御幸を始め貴族、武士もこぞって参拝をしたのだとすると、今と違って殆どが徒歩だからあちこちの王子・寺院で泊りを重ねて辿り着く恐ろしく遠い、長距離旅行ですよね。
その体験談はそれぞれの故郷、一族に語り伝えられ、長い期間かかってより強い信仰心を生み出して言ったのでしょう。
後の熊野起請文などもその信仰から出来上がったものですね。
 
 
 
義経も使った牛王宝印の誓約書 (sakura)
2019-04-08 16:42:52
中世において誓約は起請といい、諸神諸社の牛王宝印(ごおうほういん)の捺してある
起請紙の裏に誓約の文言を書いて相手に渡すのが正式とされていました。
誓約を破った時には神から罰を与えてもらうというものです。

牛王宝印は、熊野だけでなく高野山や東寺、東大寺、
春日大社・石清水八幡宮などでも発行していました。

この牛王宝印の誓約書は、世の中の秩序が乱れた
戦国時代以降特によく使われるようになり、
それは熊野三山のものが圧倒的に多く用いられました。

兄頼朝と対立した義経は、頼朝に諸神諸社の牛王宝印の裏でもって
数通の起請文を出しましたが、何の返答もないことから、
自身の心情を綴った書状を出したのが「腰越状」です。

近年では、この腰越状を偽文書とみる説もありますが、『吾妻鑑』によれば、義経は頼朝の側近である公文所別当の
大江広元を通じて嘆願書を提出しています。

満福寺に残っている腰越状の下書きは弁慶が書いたと伝承されています。
熊野別当湛増の息子といわれる弁慶ですから、
この腰越状は熊野牛王の裏に書いたのでしょうね。
 
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