コメント
 
 
 
白峰御陵は思ったより立派でした! (yukariko)
2016-09-02 22:36:48
考えてみれば尊王の水戸光圀の兄さんが高松初代でしたね、そして5代・11代藩主らによって修復整備されているのですものね。
西行の訪れた上皇崩御後四年頃は戦った相手の後白河天皇の治世だからよけいに打ち捨てられたままだった事でしょう。
西行の『山家集』や『保元物語』の内容は形を変えながらも後世に種々の伝説や文学として影響を及ぼしたのですね。
平岩弓枝「私家本椿説弓張月」を借り出して読んでみようと思います。
 
 
 
高松藩主は代々修理保護に勤めました。 (sakura)
2016-09-03 16:25:05
御陵の敷地は1688坪(5570平方㍍)もあり、
その中央の高壇に御陵があるようです。

為朝は伊豆大島で死んだのではなく、実は落ち延びて琉球へ行き、
その子が琉球王になったという伝説がありました。
その伝説を広く普及させたのが「椿説弓張月」です。

「保元物語」の終幕は伊豆大島での為朝ですが、
滝沢馬琴はさまざまな伝説を集め、英雄為朝を海の外へと飛び立たせています。
 
 
 
私事ですが (揚羽蝶)
2016-09-04 22:59:32
 私事ですが、祇園の崇徳天皇御廟と聖護院積善院にある、崇徳院地蔵さんにお参りに行ってきました。
崇徳上皇には、平家としても平家納経を、厳島神社に
奉納しましたが、少しでも怒りを和らげて頂きたいと思います。
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-09-05 09:52:00
お参りありがとうございました。
崇徳天皇御廟は祇園歌舞練場の裏手に祀られているので、
すぐおわかりになったと思いますが、崇徳院地蔵はいかがでしたか。
私がはじめてこの地蔵を訪ねた時は、聖護院の広い境内をうろうろしながら探しました。

白峯寺縁起には、「平大納言時忠卿崇徳院御廟参の砌、
奉納せられたる詩歌の序文等は本縁起に詳しく載せられている。」と記されています。


 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。