コメント
 
 
 
お寺が立派なのには訳があったのですね! (yukariko)
2010-08-08 11:15:13
一族が幾つもに枝分かれてこそ、傍系に流れが変わってもその血が伝えられるから、これは乱世の智恵でしょうか?
地名を苗字とする武将はその地を所領として治めた豪族として生き残った人達ですか。
武将は傘下に勇猛果敢な身内がいてこそ勲功も立てられたでしょうから子供は幾人も欲しい所ですね。

…家康の側室でも御三家の二つの藩祖の生母の出身地にある一族の菩提寺は後世にも手厚く保護された事でしょう。
 
 
 
手入れのいき届いた立派な寺です (sakura)
2010-08-09 18:04:50
頼朝の死後、北条氏は有力御家人を次々滅ぼしていきます。まず、頼朝に高く評価され信頼もされていた梶原景時、ついで頼朝流人時代を支えた比企尼の比企一族、畠山一族、実朝に信任されていた和田義盛、それに北条氏最大のライバル三浦一族を三浦義村の子泰村・光村の代で破り独裁体制を確立します。この時、生き残ったのが佐原義連の子孫です。

矢部禅尼(三浦義村の娘)が北条泰時に嫁いだのち、佐原義連の子盛連の後妻となり盛時ら三人の息子を生みます。矢部禅尼は執権時頼の祖母にあたり、その縁で宝治の乱の際、矢部禅尼の息子たちは、前妻(矢部禅尼の姉)の子三人と共に北条方につきます。
佐原義連は一ノ谷で義経に従って大活躍し、頼朝のお気に入りの武将でした。
地図の右手に佐原という地名が見えますが、その辺一帯が佐原義連ゆかりの地で、佐原城址が残っています。
於万が水戸・紀伊藩祖を生んだことで、彼女の兄弟、叔父縁者らも出世します。満昌寺が江戸時代に整備されたのもそんな縁があってのことです。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。