コメント
 
 
 
確かに藤原邦綱は大物でしたね! (yukariko)
2015-08-14 10:43:42
五条権大納言藤原邦綱の娘が六条・高倉・安徳天皇三代の乳人(めのと)…えっと思いましたが、めのとの場合は実際にお乳を上げた乳母ではなく「養育係」で夫婦でそれに当たるケースが多い…とあったので『なるほど!』
三代もその役に任じられるほど邦綱は平氏の中枢部にいて清盛の下で権勢をふるったのだから、その別荘も旅程では必ず使われるほど、景色のいい場所に建てられ、財力を誇示できる立派な別荘だったのでしょう。

それにしても高倉上皇は平氏の最盛期に天皇になり、法皇と清盛の間で気を使い、皇統を安徳帝に繋いで仕事を果たしたかのようにホッとしてか亡くなるのですね。
一番尊いはずの人が最初から最後まで振り回されるばかりで。
1168年2月8歳で天皇に1180年2月上皇
1180年3月の高倉上皇の厳島御幸(21日間)6月福原遷都
1180年11月23~26日京都還幸
1181正月、21歳の若さで崩御!
 
 
 
大物でしたね。 (sakura)
2015-08-16 08:34:09
息子を清盛の養子にして清邦と名のらせ、
娘の1人を平重衡(南都焼討の総大将)の妻にするなど中々のやり手です。
また策士でもありました。関白基実が亡くなると、関白の遺産の多くを
その妻盛子(清盛の娘)に相続させ、平家に横流ししています。

高倉上皇が亡くなられたと聞き、建礼門院右京太夫は次のような歌を詠んでいます。
♪雲の上に行く末とおく見し月の ひかり消えぬと聞くぞ悲しき
(宮中の栄えも行く末長いことと思いつつ仰いだ上皇様が、
月の光が雲に隠れて消えてしまうように崩御されたことは何と悲しいことでしょう。)

高倉天皇の中宮建礼門院徳子に仕えた建礼門院右京太夫は
平資盛(重盛の次男)の恋人です。
彼女の家集「建礼門院右京太夫集」には、資盛との恋の歌が多く入っています。

 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。