コメント
平家伝承
(
揚羽蝶
)
2017-04-02 22:34:19
平貞能の、一門離脱も仕方がないのかなと思いました。
小松家の家人として微妙な立場にあったのですね。
各地の戦いにおいて戦線に戻れない者も数多くいたでしょうし、それが平家の伝承になったのでしょう。壇ノ浦で完全に滅んでしまっては元も子もありません。
那須の塩原温泉の妙雲寺に貞能と重盛公の伝承があるのもよくわかりました。
平家谷
(
sakura
)
2017-04-03 08:13:04
平貞能が助命され、宇都宮家の所領にいるという噂は知れ渡り、
貞能の郎党たちが次第に主の許に集まってきたようです。
栃木県の塩谷郡栗山村川俣それに同村湯西川は、
盛大な平家祭をする伝承地として知られています。
以倉紘平氏は「平貞能像-その東国落ちについて-.」の中で、
平家一門離脱当時の貞能の心境を推察されています。
小松殿の公達が平家主流派から外されていることに対する不満、
さらに情勢判断に関する大将宗盛の甘さに
ついていけなかったに違いないとされています。
こんにちは
(
平の貞能の子孫?
)
2020-08-09 15:01:42
初めまして。
私の母の実家は、‘黒子‘と言います。
この黒子、ウイキペディアで調べましたら、
先祖は、平貞能が宇都宮氏に仕えたのちの子孫で、塩谷氏と那須氏の合戦に敗れ、茨城県の笠間の方に落ち延びる途中で苗字を変えた、そう書いてありました。貞能公がどういう人であったのか、こちらを読ませていただき、よくわかりました。栃木県芳賀郡益子町に、「安善寺」という寺があり、近くに芳賀富士と呼ばれる山があって、そこに登るときになんとなく来たことがないのに懐かしい気になったので、調べたところ、ここに貞能公の墓所があることがわかりました。
盆前に、あなたのブログに出会い、貞能公のことが分かったのも、先祖のお導きかもしれません。
梅雨明けして、暑さも益々厳しくなりました。ご自愛くださいますように。
こんにちは
(
sakura
)
2020-08-10 11:08:42
平貞能のご子孫さま
ご訪問ありがとうございます。
お母様の御実家は、黒子という珍しい苗字だそうですね。
『宇都宮系図』の朝綱の項の末尾には、
「平家の一族 筑後守貞能法師当家に来りて塩原山に住む。
その子孫家臣となって山田党と称した。」と書かれていますから、
黒子氏のご先祖は山田党ということになりますね。
新型コロナウイルス感染症の終息を願うとともに
酷暑の折から くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。
こんにちは
(
(平貞能の子孫?)
)
2020-09-21 11:59:28
先日は、コメントの返信、ありがとうございました。
本日は、安善寺と芳賀富士に出かけてまいりました。
車から降りて、境内に向かったところ、
住職がお彼岸のご準備をしておられ、
お話を伺うことができました。
そもそものなりゆきを話しますと、
先日も東京の品川から、「子孫」を名乗る方が、
お墓参りに訪問されたそうです。
墓所(正確には記念碑だった)をお参りし、
まーかーはんにゃーはーらーみーたーと、
それだけ唱えれば「般若心経」を唱えたことと同じに
なると聞いていましたので、
唱えさせていただくと、
そのあとに身も心も温まったように感じました。
それをご住職にお話しすると、
「仏さまが喜んでいるのでしょう」というお答えをい
ただき、感激いたしました。
本当のご先祖様ではなかったという可能性は
もちろんあるわけですが(家系図とかがつたわっているわけではない)
お参りしてもらって気を悪くする仏さまはおられまいと、
そう考えております。
機会を作って、また訪れようと思います。
こんにちは
(
sakura
)
2020-09-22 14:29:54
こんにちは
こちらこそコメントありがとうございます。
芳賀富士麓の安善寺にお参りされたそうですね。
仏さまもさぞお喜びなさったでしょう。
それにご住職ともお話されたそうで何よりでした。
般若心経は、多くの宗派で読まれているので、少し覚えておくといいですね。
さて、平家一門都落ちの際、平貞能は重盛の息子、資盛とともに
かつて重盛の家人であった豊後の緒方惟栄(これよし)のもとに赴きましたが、
凄い剣幕で追い返されました。それどころか、
惟栄は大軍を率いて大宰府に攻め寄せました。貞能が平家一門を離脱したのはこの時です。
その後、貞能の消息は不明です。
西海で平家一門が滅びたということを貞能がどこで耳にしたのかも分かりませんが、
「吾妻鏡」文治元年7月7日の条によると、突然、宇都宮朝綱
(遠縁にあたる)のもとに姿を現したのです。
それから貞能は宇津宮家の家臣団を形成し、朝綱の援助を得て
あちこちに仏堂を建立し、重盛はじめ平家一門の冥福を
祈りながら晩年を過ごしたようです。
仙台市青葉区の「極楽山西方寺」の旧本堂(貞能堂)の
下に貞能が埋葬されているそうです。
こんにちは
(
平の貞能の子孫?
)
2020-09-22 18:52:37
ご丁寧なご説明、ありがとうございます。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/cce1f0e49b55231174ed8eb0d7bc8fa1
ひーさんの散歩道というブログに、貞能はそれでも世を憚り、名を「定義」(さだよし)と改めました。
これが「定義」の誕生ですね。
定義如来(じょうぎにょらい)と呼ぶのもこれが起こりですね。
宮城では訛って「じょうげ」とも呼びます。
貞能は改名後も朝夕尊像を礼拝し※安徳天皇の大菩提と主君重盛公及び平氏一族の冥福を熱心に祈り続けていたのです。
貞能(定義)は死期にのぞみ従臣達にたくしたことは、「我が死後は、墳墓の上にお堂を建て如来の御尊像を安置し後世に伝えるように」と申され建久九年(1198)七月七日御齢六十歳を以ってお隠れになったのです。
と書かれてありました。
やはり、熱心にお調べになられた方がおられるようです。
また、ウイキペディアの平貞能に掲載されている、「画像集」によると、公の遺骨を葬った上に安善寺地蔵堂が建てられた、とありますので、「分骨」が行われたのかもしれません。
ご住職はそのことをおっしゃらなかったので、ご存じないか、間違いかもしれませんが。
ときどき、子孫を名乗る方が、寺を訪れることもけっこうあるようで、つい最近は東京の品川から訪れた方がいらっしゃったそうです。
源氏のみが征夷大将軍を名乗ることが出きたので、平家はマイナーなイメージがありますが、かつての一大勢力であったわけですから、子孫もあまたいても何の不思議もないので、探せば沢山いるのでしょう。
地蔵堂は拝んでいないので、次に安善寺に赴いた折には、きちんと拝んで来ようと思っております。
こんにちは
(
sakura
)
2020-09-24 14:25:33
「ひーさんの散歩道」訪問させていただきました。
ご案内ありがとうございました。
さて、壇ノ浦で惨敗した平氏一門は次々入水しましたが、
平盛嗣以下、何人かの侍大将は戦場を抜け出し、後、
頼朝に対する報復の機会を窺っています。
また、頼朝の平家の非戦闘員に対する処遇は寛大で、
降伏の道を選んだ平時忠他一門の貴族は配流されましたが、
多くの者は数年で政界に復帰しています。時忠の息子・
時実などは公卿にまで昇っています。
京都に戻った平家の女性たちの血も生き続け、
現代にまで平家一族の子孫は続いています。
全国平家会編「平家伝承地総覧」に、各地に残る安徳天皇はじめ
平家武将に関する伝承地が載っています。(大原の寂光院で買ってきました)
調査をすれば、この本に収められている以外にも多数の伝承地があるのだと思います。
御邪魔します
(
Hara
)
2020-09-29 04:30:10
失礼します、安善寺のWIKIの編集は此方のサイトを参考にしました
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-02.html
旅と犬と史跡巡りと
勿論こちらのサイトも大いに参考にして山鹿秀遠公の編集はリンクを貼らせて頂きました
が個人ブログはサービス停止の傾向があり
もっとWikiに先祖からの言い伝えが書き込めるようになればいいのですがWikiの場合真実かどうかより検証可能かどうか、公式に認められた文献が重視されるので難しい部分がありますが可能な限り現場を訪れてみます、御参考までに。
お久しぶりです。
(
sakura
)
2020-09-30 11:13:36
Haraさま
「旅と犬と史跡巡りと」訪問させていただきました。
ご紹介ありがとうございました。
Wikipediaは、誰でも記事を作成できるということぐらいしか知りませんが、
いろいろ厳しい条件があるのですね。
ところで、昨年大君神社とその近くにある堂山石塔群などを訪ねてきました。
またいつか記事にさせていただきます。
Unknown
(
Ryu
)
2022-05-08 15:05:03
はじめまして。
実家のルーツを辿りたくなった22歳の社会人(男)です。
どうやら、平家貞、貞能にルーツがあるのでは、、と思いネットを見ていたら当ブログに行き当たりました。
まだ、ルーツが完全に貞能かどうか、ひいては検証方法すらも検討がついてはいませんが、非常に有益な情報を見ることができて、嬉しかったのでそのお礼をお伝え申し上げたくてコメントいたしました。
ありがとうございます。
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小松家の家人として微妙な立場にあったのですね。
各地の戦いにおいて戦線に戻れない者も数多くいたでしょうし、それが平家の伝承になったのでしょう。壇ノ浦で完全に滅んでしまっては元も子もありません。
那須の塩原温泉の妙雲寺に貞能と重盛公の伝承があるのもよくわかりました。
貞能の郎党たちが次第に主の許に集まってきたようです。
栃木県の塩谷郡栗山村川俣それに同村湯西川は、
盛大な平家祭をする伝承地として知られています。
以倉紘平氏は「平貞能像-その東国落ちについて-.」の中で、
平家一門離脱当時の貞能の心境を推察されています。
小松殿の公達が平家主流派から外されていることに対する不満、
さらに情勢判断に関する大将宗盛の甘さに
ついていけなかったに違いないとされています。
私の母の実家は、‘黒子‘と言います。
この黒子、ウイキペディアで調べましたら、
先祖は、平貞能が宇都宮氏に仕えたのちの子孫で、塩谷氏と那須氏の合戦に敗れ、茨城県の笠間の方に落ち延びる途中で苗字を変えた、そう書いてありました。貞能公がどういう人であったのか、こちらを読ませていただき、よくわかりました。栃木県芳賀郡益子町に、「安善寺」という寺があり、近くに芳賀富士と呼ばれる山があって、そこに登るときになんとなく来たことがないのに懐かしい気になったので、調べたところ、ここに貞能公の墓所があることがわかりました。
盆前に、あなたのブログに出会い、貞能公のことが分かったのも、先祖のお導きかもしれません。
梅雨明けして、暑さも益々厳しくなりました。ご自愛くださいますように。
ご訪問ありがとうございます。
お母様の御実家は、黒子という珍しい苗字だそうですね。
『宇都宮系図』の朝綱の項の末尾には、
「平家の一族 筑後守貞能法師当家に来りて塩原山に住む。
その子孫家臣となって山田党と称した。」と書かれていますから、
黒子氏のご先祖は山田党ということになりますね。
新型コロナウイルス感染症の終息を願うとともに
酷暑の折から くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。
本日は、安善寺と芳賀富士に出かけてまいりました。
車から降りて、境内に向かったところ、
住職がお彼岸のご準備をしておられ、
お話を伺うことができました。
そもそものなりゆきを話しますと、
先日も東京の品川から、「子孫」を名乗る方が、
お墓参りに訪問されたそうです。
墓所(正確には記念碑だった)をお参りし、
まーかーはんにゃーはーらーみーたーと、
それだけ唱えれば「般若心経」を唱えたことと同じに
なると聞いていましたので、
唱えさせていただくと、
そのあとに身も心も温まったように感じました。
それをご住職にお話しすると、
「仏さまが喜んでいるのでしょう」というお答えをい
ただき、感激いたしました。
本当のご先祖様ではなかったという可能性は
もちろんあるわけですが(家系図とかがつたわっているわけではない)
お参りしてもらって気を悪くする仏さまはおられまいと、
そう考えております。
機会を作って、また訪れようと思います。
こちらこそコメントありがとうございます。
芳賀富士麓の安善寺にお参りされたそうですね。
仏さまもさぞお喜びなさったでしょう。
それにご住職ともお話されたそうで何よりでした。
般若心経は、多くの宗派で読まれているので、少し覚えておくといいですね。
さて、平家一門都落ちの際、平貞能は重盛の息子、資盛とともに
かつて重盛の家人であった豊後の緒方惟栄(これよし)のもとに赴きましたが、
凄い剣幕で追い返されました。それどころか、
惟栄は大軍を率いて大宰府に攻め寄せました。貞能が平家一門を離脱したのはこの時です。
その後、貞能の消息は不明です。
西海で平家一門が滅びたということを貞能がどこで耳にしたのかも分かりませんが、
「吾妻鏡」文治元年7月7日の条によると、突然、宇都宮朝綱
(遠縁にあたる)のもとに姿を現したのです。
それから貞能は宇津宮家の家臣団を形成し、朝綱の援助を得て
あちこちに仏堂を建立し、重盛はじめ平家一門の冥福を
祈りながら晩年を過ごしたようです。
仙台市青葉区の「極楽山西方寺」の旧本堂(貞能堂)の
下に貞能が埋葬されているそうです。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/cce1f0e49b55231174ed8eb0d7bc8fa1
ひーさんの散歩道というブログに、貞能はそれでも世を憚り、名を「定義」(さだよし)と改めました。
これが「定義」の誕生ですね。
定義如来(じょうぎにょらい)と呼ぶのもこれが起こりですね。
宮城では訛って「じょうげ」とも呼びます。
貞能は改名後も朝夕尊像を礼拝し※安徳天皇の大菩提と主君重盛公及び平氏一族の冥福を熱心に祈り続けていたのです。
貞能(定義)は死期にのぞみ従臣達にたくしたことは、「我が死後は、墳墓の上にお堂を建て如来の御尊像を安置し後世に伝えるように」と申され建久九年(1198)七月七日御齢六十歳を以ってお隠れになったのです。
と書かれてありました。
やはり、熱心にお調べになられた方がおられるようです。
また、ウイキペディアの平貞能に掲載されている、「画像集」によると、公の遺骨を葬った上に安善寺地蔵堂が建てられた、とありますので、「分骨」が行われたのかもしれません。
ご住職はそのことをおっしゃらなかったので、ご存じないか、間違いかもしれませんが。
ときどき、子孫を名乗る方が、寺を訪れることもけっこうあるようで、つい最近は東京の品川から訪れた方がいらっしゃったそうです。
源氏のみが征夷大将軍を名乗ることが出きたので、平家はマイナーなイメージがありますが、かつての一大勢力であったわけですから、子孫もあまたいても何の不思議もないので、探せば沢山いるのでしょう。
地蔵堂は拝んでいないので、次に安善寺に赴いた折には、きちんと拝んで来ようと思っております。
ご案内ありがとうございました。
さて、壇ノ浦で惨敗した平氏一門は次々入水しましたが、
平盛嗣以下、何人かの侍大将は戦場を抜け出し、後、
頼朝に対する報復の機会を窺っています。
また、頼朝の平家の非戦闘員に対する処遇は寛大で、
降伏の道を選んだ平時忠他一門の貴族は配流されましたが、
多くの者は数年で政界に復帰しています。時忠の息子・
時実などは公卿にまで昇っています。
京都に戻った平家の女性たちの血も生き続け、
現代にまで平家一族の子孫は続いています。
全国平家会編「平家伝承地総覧」に、各地に残る安徳天皇はじめ
平家武将に関する伝承地が載っています。(大原の寂光院で買ってきました)
調査をすれば、この本に収められている以外にも多数の伝承地があるのだと思います。
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-02.html
旅と犬と史跡巡りと
勿論こちらのサイトも大いに参考にして山鹿秀遠公の編集はリンクを貼らせて頂きました
が個人ブログはサービス停止の傾向があり
もっとWikiに先祖からの言い伝えが書き込めるようになればいいのですがWikiの場合真実かどうかより検証可能かどうか、公式に認められた文献が重視されるので難しい部分がありますが可能な限り現場を訪れてみます、御参考までに。
「旅と犬と史跡巡りと」訪問させていただきました。
ご紹介ありがとうございました。
Wikipediaは、誰でも記事を作成できるということぐらいしか知りませんが、
いろいろ厳しい条件があるのですね。
ところで、昨年大君神社とその近くにある堂山石塔群などを訪ねてきました。
またいつか記事にさせていただきます。
実家のルーツを辿りたくなった22歳の社会人(男)です。
どうやら、平家貞、貞能にルーツがあるのでは、、と思いネットを見ていたら当ブログに行き当たりました。
まだ、ルーツが完全に貞能かどうか、ひいては検証方法すらも検討がついてはいませんが、非常に有益な情報を見ることができて、嬉しかったのでそのお礼をお伝え申し上げたくてコメントいたしました。
ありがとうございます。