コメント
12本に
(
自閑
)
2016-05-10 04:57:19
sakura様
12本と言う数に、十二神将を思い浮かべてしまいました。
1年12ヶ月、十二支、時計12時と縁起の良い数字なのかも?四方八方の合計ですし。
義経四天王と言うのも有りますね。
伝説と言うのも、そう言う縁起を担ぐ所がありますよね。
12本
(
sakura
)
2016-05-10 15:15:56
そういう見方もあるのかと感心しております。
義経四天王は、「源平盛衰記」巻42に、「判官には多くの郎等の中に、
四天王とて殊に身近く頼み給へる者は四人あり。」として
鎌田兵衛正清が子に鎌田藤太盛政、同藤次光政、佐藤継信、
同忠信の名をあげ、藤太盛政は一谷にて討たれぬ。
藤次光政は屋島で戦死としています。
また、屋島でも鎌田光政の名(多分、お墓への道標)を目にしました。
「盛衰記」にしか登場しないこの兄弟は、はたして実在の人物だったのでしょうか。
今後追及していきますね。
義経四天王を追跡しました。
(
sakura
)
2016-05-15 15:46:08
自閑さま
鎌田藤太盛政、同藤次光政の名前「国史大辞典」で確認しました。
鎌田正清の次男光政は義経四天王といわれ、屋島で戦死したと書かれています。
藤太盛政は一ノ谷で戦死としていますが、義経四天王についての記述はありません。
別冊歴史読本、2005年発行によると、義経四天王は後世の創作であるとし、
誰を四天王とするかは諸説あるとしています。
「吾妻鏡」建久5年十月二十五日条によれば、義朝、鎌田正清の
菩提を弔う供養が勝長寿院で行われた際、遺児を捜したが男子はなく、
正清の娘が尾張篠木荘と丹波田名部荘の地頭職を頼朝から与えられた。と記されています。
四天王も色々ですね
(
自閑
)
2016-05-16 02:37:02
私の絵本で義経四天王は、伊勢三郎義盛、亀井六郎重清、片岡八郎経春、駿河次郎清常となっており、人によって違って来ますね。
人それぞれ、義経を思い浮かべる場面が異なり、そこに登場した者が、四天王に当て嵌められていったということかも知れません。
実在を疑われる者が居るのも、山賊とか猟師とか、下賤の名も無き者たちだったから。その後頼朝、義経の不仲により、所領を得る事も無く、判官贔屓により伝説のみが伝えられていったと云う事ですね。名も無きとは言え、存在はして活躍した事は事実ですね。
亀井重清について
(
sakura
)
2016-05-16 15:16:28
自閑さま
名古屋市瑞穂区井戸田の龍泉寺の前には、「頼朝公産湯の井」といわれる亀井水があります。
その西側付近には、義経の郎党亀井六郎重清の邸があったとされています。
『吾妻鏡』文治元年(1185)五月七日条によると、亀井重清は、
義経の使者として頼朝に異心を抱かないことを誓う起請文を届けています。
『義経記』によれば、鈴木三郎重家、亀井六郎重清兄弟は、
高館に援軍として駆けつけ、兄弟そろって義経の最期に殉じました。
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12本と言う数に、十二神将を思い浮かべてしまいました。
1年12ヶ月、十二支、時計12時と縁起の良い数字なのかも?四方八方の合計ですし。
義経四天王と言うのも有りますね。
伝説と言うのも、そう言う縁起を担ぐ所がありますよね。
義経四天王は、「源平盛衰記」巻42に、「判官には多くの郎等の中に、
四天王とて殊に身近く頼み給へる者は四人あり。」として
鎌田兵衛正清が子に鎌田藤太盛政、同藤次光政、佐藤継信、
同忠信の名をあげ、藤太盛政は一谷にて討たれぬ。
藤次光政は屋島で戦死としています。
また、屋島でも鎌田光政の名(多分、お墓への道標)を目にしました。
「盛衰記」にしか登場しないこの兄弟は、はたして実在の人物だったのでしょうか。
今後追及していきますね。
鎌田藤太盛政、同藤次光政の名前「国史大辞典」で確認しました。
鎌田正清の次男光政は義経四天王といわれ、屋島で戦死したと書かれています。
藤太盛政は一ノ谷で戦死としていますが、義経四天王についての記述はありません。
別冊歴史読本、2005年発行によると、義経四天王は後世の創作であるとし、
誰を四天王とするかは諸説あるとしています。
「吾妻鏡」建久5年十月二十五日条によれば、義朝、鎌田正清の
菩提を弔う供養が勝長寿院で行われた際、遺児を捜したが男子はなく、
正清の娘が尾張篠木荘と丹波田名部荘の地頭職を頼朝から与えられた。と記されています。
人それぞれ、義経を思い浮かべる場面が異なり、そこに登場した者が、四天王に当て嵌められていったということかも知れません。
実在を疑われる者が居るのも、山賊とか猟師とか、下賤の名も無き者たちだったから。その後頼朝、義経の不仲により、所領を得る事も無く、判官贔屓により伝説のみが伝えられていったと云う事ですね。名も無きとは言え、存在はして活躍した事は事実ですね。
名古屋市瑞穂区井戸田の龍泉寺の前には、「頼朝公産湯の井」といわれる亀井水があります。
その西側付近には、義経の郎党亀井六郎重清の邸があったとされています。
『吾妻鏡』文治元年(1185)五月七日条によると、亀井重清は、
義経の使者として頼朝に異心を抱かないことを誓う起請文を届けています。
『義経記』によれば、鈴木三郎重家、亀井六郎重清兄弟は、
高館に援軍として駆けつけ、兄弟そろって義経の最期に殉じました。