コメント
 
 
 
地方にも史実と言い伝えが残っているのですね。 (yukariko)
2009-05-18 23:16:40
54年の一生で二度も流罪になるとは…それも父親の罪に連座して栄耀栄華の大臣家の御曹司が一転して18で土佐の僻村に流され先の見えぬ失意の暮らしを9年
…兄弟3人は失意のうちに亡くなったという事ですからこの時は彼も帰京は半ばあきらめていたでしょう。

それが許され復権して順調に権大納言ついには太政大臣まで登りながらも、またもやとばっちり?で尾張の片田舎に流罪…18の時とは違って氏の長者となって、年頃もすでに壮年ですから、前もって流罪になった時の心の準備も根回しもしていたと思います。

光源氏が須磨隠棲の前に残された者達の暮らしも立ち行くように配慮し、生活の糧の準備、領地の手配も怠りなくやって配所に向かったのと同じだろうと…。

藤原師長も宮廷の争いの趨勢を遠い地で見守りながら、自分を光源氏に見立てて配所の月を楽しんだかな…源氏もまた呼び返されて最高の地位に昇りつめたから自分も法皇の信頼さえ失わなければ復権の機会はあると…。
音楽の素養があっても政治家は骨の髄まで政治家でしょうし、彼もまた前回コメントに書いて下さった忠通の甥ですものね。

 
 
 
忠通の甥ですが (sakura)
2009-05-19 16:31:24
師長は祖父・前関白忠実の養子になっています。
元服当日に早くも正5位下を賜り、14歳で参議に昇り
17歳には権中納言に進んだ所で、保元の乱後土佐に遷され、
42歳で尾張井戸田(瑞穂区)に流されます。

明るくて暢気な性格の師長は二度の流罪にもへこたれず
自分の置かれている境遇を白居易に重ね合わせて
琵琶を奏し楽しんでいたのでしょうか。
名古屋各所に師長ゆかりの地名や史跡が点在しているのをみても
配所での生活を土地の人とも仲良く暮らしていたのが分かります。
日本名所風俗図会には、配所で松風、波音、漁歌に耳を傾け
侘び住いする師長公謫居の図が載せられています。
源氏物語の須磨とよく似た設定ですね。

保元の乱後、忠実は忠通に所領を全て譲ることで
赦されます。
忠実は宇治での余生を望みますが、洛北の知足院に幽閉され、
乱の6年後、85歳で亡くなっています。

配流前に忠実を訪ねた師長は、出家してから配流地に
行こうかと相談しますが、忠実はどのような時代が
来るか分からないので思いとどまるよう説得しています。

平安時代史事典によると師長は「激動期の政治家としては
凡庸のそしりを免れない云々」だそうです。

波乱にとんだ人生でしたね。

 
 
 
地方w (ポポロ)
2016-09-21 20:40:56
地方といってもその界隈は日本武尊の故事の残る土地なので
東京はおろか京都なんて田舎より歴史がありますが
 
 
 
ポポロさまご訪問ありがとうございました。 (sakura)
2016-09-22 13:34:51
熱田神宮は草薙の剣を祀るお社ですものね。
熱田神宮の宝物館でいただいた資料などによると、
「草薙の剣」は、神代にスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した時、
大蛇の尾から出た剣で天照大神に献上され、代々天皇家に伝えられたものでした。

この剣は伊勢神宮に移された後、景行天皇の皇子日本武尊が東国征伐の命を受けた時、
伊勢神宮に詣で、伊勢の斎宮であった叔母の倭姫からこの神剣を授かり、
駿河国に入りました。この国の賊が尊を野に誘い出し
四方から火を放って焼き殺そうとしましたが、神剣で
草を薙ぎ、ピンチを脱出しました。このことから剣は
「草薙の剣」とよばれるようになりました。
この剣を妃の宮簀媛(みやすひめ)のもとに置いて大和へ凱旋する途中、
尊は伊吹山で亡くなったため、宮簀媛は剣を祀る社を創建したのが、
熱田神宮の始まりでしたね。宮簀媛は尾張氏につながり、
尾張氏は美濃国の鉄を押さえ、伊勢湾の航行権を握っていましたから、
尊も宮簀媛と結婚して誼を結ぶ必要があったのでしょう。
面白いので長々と書いてしましましたが、
ポポロさまもよくご存じのことばかりだと思います。

名古屋では、頼朝生誕地の誓願寺、嶋川稲荷、平家の侍大将
平景清邸跡など訪ねた後、断夫山古墳や日本武尊伝説の白鳥古墳へも行きました。
断夫山古墳はすぐわかりましたが、白鳥古墳はウロウロしながら探し回りました。
 
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