コメント
さいふまいり
(
揚羽蝶
)
2016-11-12 20:01:39
大宰府には、蔵司などの役所や学校院などの遺跡があり、九州の学問の中心地だったのですね。
太宰府天満宮や九州国立博物館などがあり、学問や文化に縁がありそうですね。
さいふまいりとは、一瞬なにか財布に縁のあるところを
参るのかと思いましたが、違いました。が、 お財布は忘れないように。なんてね。
宰府、西府の意味のようですが、
(
sakura
)
2016-11-13 14:51:07
おもしろいネーミングですね。
江戸時代には、世の中が落ち着いて庶民の生活も豊かになり、
全国的に伊勢参りなどの社寺参詣が盛んになりました。宰府宿は黒田藩が設けた28宿のひとつとされ、
太宰府天満宮、その西2キロほど行ったところには、
80年の歳月をかけて天智天皇が創建した観世音寺があります。
観世音寺には、当時、日本に3か所だけの戒壇のひとつが置かれ、
往時には、七堂伽藍を備え49院を擁し「府の大寺」として大伽藍を誇っていました。
大宰府跡とその東方の観世音寺の間が大宰府学校院跡と推定されています。
この地区の発掘調査は、現在まで14回行われ、建物跡が11棟確認されています。
大宰府学校院は中央でいえば大学にあたり、活発な教育が行われていたようで、
観世音寺から大宰府にかけては、古くは文化・学問の中心地だったようです。
太宰府天満宮は「太宰府」駅から歩いて5分ほどのところにあり、
10年ほど前に九州国立博物館が開かれると、この駅で降りる人が一層多くなったそうです。
西の彼方に思える大宰府も官公庁としての機能を充分果たし続けていたのですね。
(
yukariko
)
2016-11-17 19:15:15
西海道を防備し、租税などの徴収をする役所としての機能を十分果たす為に、教育機関が整備されていたのが分かります。
都でも堂上公家は華やかに権力闘争に明け暮れ、歌舞音曲で気楽に暮らしていたようについ思いますが、その下にはきちんとした官僚組織が整備されて日本全国を網羅して支配していたのでしょうね。
武士が台頭して後、鎌倉幕府が始まる頃まではずっとめちゃくちゃだった…でもなく、全国的にもそれなりにきちんと機能していたのでしょうね。
平氏による武家政権は、院政下のものです。
(
sakura
)
2016-11-19 09:19:55
政治の基本は後白河院と摂関家、有力貴族を中心にして進められ、
平氏一門が院の議定に参加することはありませんでした。
清盛の武家政権は、日宋貿易で手にした莫大な富と武力で
朝廷を支えるという形をとっています。とはいうものの、
重要な官職を一門で独占し、一門の知行国は30をこえ、
あまりの隆盛ぶりに不満を持つ者が多く現れます。
このような院政と武家政権の共存は、不安定要素が多く、
両者をとりもっていた後白河院の妃建春門院が亡くなると、
政局は動揺し、反平氏勢力が活発化します。
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太宰府天満宮や九州国立博物館などがあり、学問や文化に縁がありそうですね。
さいふまいりとは、一瞬なにか財布に縁のあるところを
参るのかと思いましたが、違いました。が、 お財布は忘れないように。なんてね。
江戸時代には、世の中が落ち着いて庶民の生活も豊かになり、
全国的に伊勢参りなどの社寺参詣が盛んになりました。宰府宿は黒田藩が設けた28宿のひとつとされ、
太宰府天満宮、その西2キロほど行ったところには、
80年の歳月をかけて天智天皇が創建した観世音寺があります。
観世音寺には、当時、日本に3か所だけの戒壇のひとつが置かれ、
往時には、七堂伽藍を備え49院を擁し「府の大寺」として大伽藍を誇っていました。
大宰府跡とその東方の観世音寺の間が大宰府学校院跡と推定されています。
この地区の発掘調査は、現在まで14回行われ、建物跡が11棟確認されています。
大宰府学校院は中央でいえば大学にあたり、活発な教育が行われていたようで、
観世音寺から大宰府にかけては、古くは文化・学問の中心地だったようです。
太宰府天満宮は「太宰府」駅から歩いて5分ほどのところにあり、
10年ほど前に九州国立博物館が開かれると、この駅で降りる人が一層多くなったそうです。
都でも堂上公家は華やかに権力闘争に明け暮れ、歌舞音曲で気楽に暮らしていたようについ思いますが、その下にはきちんとした官僚組織が整備されて日本全国を網羅して支配していたのでしょうね。
武士が台頭して後、鎌倉幕府が始まる頃まではずっとめちゃくちゃだった…でもなく、全国的にもそれなりにきちんと機能していたのでしょうね。
平氏一門が院の議定に参加することはありませんでした。
清盛の武家政権は、日宋貿易で手にした莫大な富と武力で
朝廷を支えるという形をとっています。とはいうものの、
重要な官職を一門で独占し、一門の知行国は30をこえ、
あまりの隆盛ぶりに不満を持つ者が多く現れます。
このような院政と武家政権の共存は、不安定要素が多く、
両者をとりもっていた後白河院の妃建春門院が亡くなると、
政局は動揺し、反平氏勢力が活発化します。