コメント
 
 
 
刻まれた文字が消えても (自閑)
2016-05-12 05:39:47
sakura様
この碑も近所の人すら知らない可能性が大きいですね。細い路地を入っていく観光客は、皆無かと思います。
石塔の本当の意味は失われ、場所が変えられても、その跡を残そうと云う者がいて、その残そうとした者の功績を讃える碑文が建てられ、その碑文は失われても、100年後に金属プレートでその意味を残す。そして、それを広く紹介するsakura様がいらっしゃる。
屋島でもそうでしたが、佐藤兄弟は、末代までの誉を得たと云うことですね。
 
 
 
留守にしていました。 (sakura)
2016-05-14 08:09:32
自閑さま
お返事が遅くなってすみませんでした。

近所の人にも知られていない。
その通りのようです。佐藤兄弟の墓は路地入口から
9メートルほど入ったところにありますが、
辺りには近所のお店の段ボールがいくつも置かれていたので、片づけてから撮りました。
二人の名前をご存知ないのかと。

継信は義経の楯となって屋島で戦死しましたが、弟の忠信は
吉野山で義経を落ちさせた後、花矢倉で献身的な働きをする姿が印象的です。

ちょうど義仲に対する今井兼平兄弟に見るような奉仕ぶりです。
しかし、兼平らと義仲は乳母子です。
佐藤兄弟がこれほどまで義経に肩入れした背景について、
上横手雅敬氏は「義経の妻が佐藤氏の出であったことが考えられる。」と指摘されています。

 
 
 
義経と弁慶しか一般人は知らないのでしょうね。 (yukariko)
2016-05-14 16:03:20
義経主従の逃避行伝説が各地に残っていますが、それ以外にも忠臣がいた事、その最後が壮絶だったことなどをこの記事で知りました。
その後世の一族が顕彰碑を建て、その子がその場所を保存して世の人々に知らしめようとされた…それをまた現代の人間が教えられて、歴史の狭間の出来事を知る人が増える、顕彰碑の意味はあった訳ですね。

本当に京都の町には小さな碑、石柱も長い歴史を語る大事なゆるがせに出来ない大事な証拠の集積地ですね。
 
 
 
アウトロー出身者が多い (sakura)
2016-05-15 08:28:26
佐藤兄弟の父親は奥州大武士団の長、いざとなれば
500騎ほどの軍事力を動員できる相当な実力者です。
しかし、義経の郎党には出自不明の者や山賊や僧兵あがりの者が多く、
田口教能の陣に乗り込んで教能を欺いて降伏させた伊勢三郎義盛の経歴も諸説あり、
山賊の出ともいわれています。このようなことからも
義経郎党の名は知られてないのかと思います。
古典芸能ファンは、弁慶とか佐藤兄弟の名はよくご存知でしょうが。


 
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