コメント
今まではこの辺りの詳しい所が分かりにくくて
(
yukariko
)
2009-07-21 10:30:02
人の名前もそうですが、それぞれ担いでいるお神輿・派閥争いや勢力の違いがよく分からなかったので保元の乱から平治の乱、後の平氏の台頭までがごちゃごちゃでよく分かりませんでした。
こんな風に克明に描いて頂くと『ああそうなのか!』と腑に落ちて納得できました。
今の政治じゃありませんが、皆それぞれお腹の底に別の思惑があって表面上は別の動きをするなど動きが錯綜していますね。
今の政治には残念ながら清盛のような期待の星がいない!
「政界に精通し身の処し方をわきまえて、上手く立廻る清盛」その血筋がご落胤という貴種の安心感もあったでしょうし。
書かれているように「平氏待望論」が出るのも当然ですね。
後には「驕る平氏」と悪役一辺倒になりますが、
周りの貴族もそうさせたところもあるのでしょうね。
続きです。
(
yukariko
)
2009-07-22 10:22:10
最初の「平治の乱関係図」が位置関係が分かってとてもありがたいです。
詳しく地名で書かれていても相関関係となると、それは御所のどの方角?とよく分かりません。
だから具体的に六波羅・御所・一本御書所・三条東殿・信西邸を描いて下さっているので理解しやすいです。
狭い京都といっても交通機関の発達した現代と違い移動手段がほとんど徒歩、貴族の牛車、一番早くて馬ですものね。
駿馬の産地を支配下に持つ義朝が軍事力で勝るのは当たり前。
でも根回しなどの政治力を持つ側近に恵まれなかったのでしょうか?
貴族からすれば坂東武者などは眼中になく、その意見を取り上げる気にもならなかった?
ワードのお絵かきが役立っています。
(
sakura
)
2009-07-22 16:53:32
もう少し熱心に聞いていれば、もっとましな図が描けるのでしょうが…
有名な悪源太義平と平重盛の大内裏の合戦、六条河原での決戦、
高野川に沿って義朝の敗走と、こんな図でもあれば少しは分かって頂けるでしょうか。
義朝は源氏の縄張りを広げる役割を負わされ坂東に下り
少年期をそこで過ごします。その後官位昇進のため都に戻りますが、
東国育ちのため粗野でその上交際下手。
東国の荒夷(野蛮人)などと呼ばれたのに対して
清盛は人望もあり周囲の政治情報を判断する能力に優れていました。
「平家物語」に描かれる横暴で激情的な清盛像は、
中年以降の権力を握ってからの姿です。(平治の乱当時清盛42歳)
義朝の弟鎮西八郎為朝が清盛のことを「清盛などがへろへろ矢、
何ほどのことがございましょう」とあざ笑っていますが、(保元物語)
源氏の子息とは違い清盛にとって保元の乱は始めての戦い、
彼らと一騎討ちでもすればきっとかなわなかったでしょう。
保元の乱のヒーロー義朝と大した功績もない清盛、この二人を
信西が極端に差別したのは、武芸では劣っていても
政治家として人間として、清盛の方が優れていると判断したためでしょう。
※名簿を提出するように清盛にアドバイスしたのは内大臣藤原公教。
(待賢門院璋子に三条高倉第を提供した異母兄実行の嫡子)
※平治の乱で清盛に敵対した藤原成親は、乱後
鹿ケ谷事件に加わり、備前に流されそこで殺された。
(妹が重盛の妻、娘は重盛の嫡子惟盛と結婚)
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こんな風に克明に描いて頂くと『ああそうなのか!』と腑に落ちて納得できました。
今の政治じゃありませんが、皆それぞれお腹の底に別の思惑があって表面上は別の動きをするなど動きが錯綜していますね。
今の政治には残念ながら清盛のような期待の星がいない!
「政界に精通し身の処し方をわきまえて、上手く立廻る清盛」その血筋がご落胤という貴種の安心感もあったでしょうし。
書かれているように「平氏待望論」が出るのも当然ですね。
後には「驕る平氏」と悪役一辺倒になりますが、
周りの貴族もそうさせたところもあるのでしょうね。
詳しく地名で書かれていても相関関係となると、それは御所のどの方角?とよく分かりません。
だから具体的に六波羅・御所・一本御書所・三条東殿・信西邸を描いて下さっているので理解しやすいです。
狭い京都といっても交通機関の発達した現代と違い移動手段がほとんど徒歩、貴族の牛車、一番早くて馬ですものね。
駿馬の産地を支配下に持つ義朝が軍事力で勝るのは当たり前。
でも根回しなどの政治力を持つ側近に恵まれなかったのでしょうか?
貴族からすれば坂東武者などは眼中になく、その意見を取り上げる気にもならなかった?
有名な悪源太義平と平重盛の大内裏の合戦、六条河原での決戦、
高野川に沿って義朝の敗走と、こんな図でもあれば少しは分かって頂けるでしょうか。
義朝は源氏の縄張りを広げる役割を負わされ坂東に下り
少年期をそこで過ごします。その後官位昇進のため都に戻りますが、
東国育ちのため粗野でその上交際下手。
東国の荒夷(野蛮人)などと呼ばれたのに対して
清盛は人望もあり周囲の政治情報を判断する能力に優れていました。
「平家物語」に描かれる横暴で激情的な清盛像は、
中年以降の権力を握ってからの姿です。(平治の乱当時清盛42歳)
義朝の弟鎮西八郎為朝が清盛のことを「清盛などがへろへろ矢、
何ほどのことがございましょう」とあざ笑っていますが、(保元物語)
源氏の子息とは違い清盛にとって保元の乱は始めての戦い、
彼らと一騎討ちでもすればきっとかなわなかったでしょう。
保元の乱のヒーロー義朝と大した功績もない清盛、この二人を
信西が極端に差別したのは、武芸では劣っていても
政治家として人間として、清盛の方が優れていると判断したためでしょう。
※名簿を提出するように清盛にアドバイスしたのは内大臣藤原公教。
(待賢門院璋子に三条高倉第を提供した異母兄実行の嫡子)
※平治の乱で清盛に敵対した藤原成親は、乱後
鹿ケ谷事件に加わり、備前に流されそこで殺された。
(妹が重盛の妻、娘は重盛の嫡子惟盛と結婚)