コメント
 
 
 
六波羅とは広い地域を差したのですね! (yukariko)
2009-08-02 21:39:35
見せて下さった地図よりももっと広い一帯に主要人物の邸宅をはじめ、平氏の軍事施設が集まっていたのでしょうね。
平氏の勢いがいかに盛んだったかがよく分かります。

六波羅蜜寺には歴史を詳しく知らなかった頃、友人が西国33番札所の掛け軸を買うのに付き合ってお参りしただけなので、今思えば残念な事をしたものだと思います。
近くに六道珍皇寺などもあるのだから一度に見学出来たのに(笑)

でもこうして色々ないわれを教えて貰ってから改めてお参りする方がありがたいというものかも知れません。
 
 
 
歩いて廻ると広さが実感できます! (sakura)
2009-08-03 17:32:06
六波羅は、六波羅蜜寺周辺に昔を物語る町名と僅かな史跡が残るだけですが、
近くの六道珍皇寺が面白いですね。
また地図にある池殿町傍の妙順寺境内には
安徳天皇産湯ノ井も残っています。

源氏のように一族の中で骨肉の争いをするのと違い、平家は一門で揃って栄え、
滅びる時も全てを焼いて揃って都落ちするところなど好感がもてるのですが…

 
 
 
Unknown (Unknown)
2020-05-22 17:38:34
2020年2月半ばに六波羅と清水寺を駆け足で回りました。40年近く前に修学旅行では清水だけささっと見ましたが、平家に興味があり六波羅蜜寺まで歩きました有名な割には静かなお寺さんでした。平家の皆さんはずいぶん坂の多いところに住んだんだなあ、もう当時から川向こうのいいところは貴族が抑えていたのかと思いながら歩きました。今のたたずまいのようにぎゅうぎゅうだったのか、庭付きのゆーったりした邸宅だったのか、興味あるところです。
 
 
 
ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2020-05-23 15:22:05
清水寺・六波羅・六波羅蜜寺をお回りになったそうですが、
清水寺から六波羅蜜寺までは結構な距離がありますね。

平家都落ちに際して六波羅は焼き払われたので、平家を偲ぶよすがは、
六波羅蜜寺の名や境内にある清盛塚や宝物収蔵庫の清盛像、町名くらいしかありませんね。
六波羅蜜寺は、平氏がこの地に住む以前からあり、
平氏が館を建てるようになって縁ができたといわれています。

ところで、NHKテレビブラタモリ「清水寺周辺の高低差」という番組で、
100万年ほど前、両側から地層に力が加わり、嵐山・清水寺周辺が盛り上がって
断層が出現したといっているのを、清水寺の周辺には、
坂が多いのでなるほどと思いながら見ていました。

さて、六波羅は20余町という広大な地に一族郎党の平家館が建ち並ぶ大邸宅街でした。

六波羅での発掘調査は少なく、各々の邸の大きさは明らかではありませんが、
手もとの資料に「六波羅邸復元模型」の写真があったので、
この記事に載せておきます。

貴族の大邸宅の多くは、内裏にも近い三条以北、
その次が六条界隈に集まっていた といわれ、
敷地の広さには身分規制があり、三位以上の位階に許されたのが一町の広さです。

陰陽家として有名な賀茂忠行の息子、慶滋保胤(よししげのやすたね)という
大内記を務めた下級官人(内記は中務省の役職)、
その保胤が左京の六条に構えた邸の広さは4分の1町と規定どおりだったそうです。


 
 
 
Unknown (あき)
2022-08-20 00:27:09
こんにちは。大変お詳しくて勉強になりました。先日お盆でちょうど六波羅を歩いて参りました。平時忠の邸宅跡は平家没官領になったあと、頼朝が再び時忠の妻子に居住を許したと吾妻鑑にありますが、どのあたりだったんでしょうね。六波羅の屋敷に火をかけて都落ちした、とよくいわれるので、焼け残っていたとすると西八條邸のほうだったのかな?と興味深く思っています。ロマンがありますね。
 
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