コメント
何度も戦争があり、火事もあった都ですのに…
(
yukariko
)
2017-09-22 21:09:40
1159年の平治の乱の戦で三条河原で討死し遺骸は東分木町南側の人家の後に葬られ、江戸時代には山伏塚と呼ばれたとか。
京の街中ではないとはいえ、550年後の1717年に子孫がその塚を探し当て、2年後に追善供養をして石塔を立てた…本人が源氏でしかも頼朝の乳母の山内尼の夫とはいえ、はるか後世になって一族の言い伝えを頼りに探し当てた事自体が凄いですね。
凄いですね
(
sakura
)
2017-09-25 09:27:43
最初、山内縫殿は少し西側の三条白川橋近辺を尋ね歩いているので、
戦死の場所はその辺りと伝えられていたのでしょうね。
そこで山伏塚を教えられ、山内氏菩提所洞春院の僧が来て追善供養を行ったようです。
「姓氏家系大辞典」には、「山内縫殿は、
治績多く、その名高し」と記されています。
敵に取られた俊通の首は六条河原に晒されたのでしょうが、
亡骸を埋めたところは古墳となり、山伏塚と呼ばれて
その死を惜しまれていたようです。
源氏に心を寄せる者が埋葬し土盛したのでしょうか。
Unknown
(
三河の者
)
2024-03-21 00:23:22
山内首藤末裔の者です先祖の塚が残っているとは
時間を作って手を合わせに行ってみたいと思います。
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京の街中ではないとはいえ、550年後の1717年に子孫がその塚を探し当て、2年後に追善供養をして石塔を立てた…本人が源氏でしかも頼朝の乳母の山内尼の夫とはいえ、はるか後世になって一族の言い伝えを頼りに探し当てた事自体が凄いですね。
戦死の場所はその辺りと伝えられていたのでしょうね。
そこで山伏塚を教えられ、山内氏菩提所洞春院の僧が来て追善供養を行ったようです。
「姓氏家系大辞典」には、「山内縫殿は、
治績多く、その名高し」と記されています。
敵に取られた俊通の首は六条河原に晒されたのでしょうが、
亡骸を埋めたところは古墳となり、山伏塚と呼ばれて
その死を惜しまれていたようです。
源氏に心を寄せる者が埋葬し土盛したのでしょうか。
時間を作って手を合わせに行ってみたいと思います。