コメント
 
 
 
趣味を.同じくする友人とは長く付き合えますね… (yukariko)
2013-07-15 17:54:59
現代でも仕事は選べないし、上司はなおのこと、
『ならぬ堪忍、するが堪忍!』という事も多いでしょう。
それが封建・江戸時代も100年近くなればどの藩も節約に努め、家臣の俸禄も借り上げられたり、減らされたり、万事がお家大事で息が詰まるような暮らしだったでしょう。
その中での楽しみは趣味、たいしたお金はかけずとも
同好の士と連れ立って句を読む楽しみは何物にも代えがたかったでしょうし、はるか高みへ導いて下さるお師匠への尊敬の念は高く、師弟の絆は強かったと思います。
その気持ちは芭蕉にもひしひしと伝わっていたでしょうし、頼りにもされたことでしょう。

義仲寺の碑や墓の由来は頂いた解説で読んでも、弟子たちの関係も分からなかったので今一つ理解できないところもあったのですが、藤堂高虎の築いた膳所城の話なども絡めての丁寧な解説が有難いです。
 
 
 
何度も拝観しないと… (Unknown)
2013-07-17 10:55:32
義仲寺境内には27基の諸碑があり、それらひとつひとつを探しながら読み進めて行くと、
中には建碑年代不明のものや、文字が磨滅して読めないものもあります。
芭蕉の句碑が3基、今回ご紹介させていただきました芭蕉の弟子、
又玄の有名な句碑の他、代々の無名庵主の句碑がたっていますが、
私は肝心の芭蕉の夏草やの句碑を見逃してしまいました。

『おくの細道』から帰った芭蕉は、弟子たちに「かるみ」を説き始めますが、
伊賀上野・尾張蕉門の人々にはこれが理解できませんでしたが、
近江・京の蕉門たちはすぐに理解し、自分たちの俳諧の理念として素直に受け入れます。
ちなみに「かるみ」とは、ものの姿や心の動きを、できるだけ難しいことばや
難しい漢字、熟語などを使わないで、分かりやすい言葉で写し取ることです。

芭蕉が義仲寺に埋葬するように遺言したのは、すでに述べさせていただいた理由の他に、
近江蕉門の人々が芭蕉の新風「かるみ」のよき理解者であるとともに
実践者であったため、芭蕉は近江の門人たちを
特に可愛がっていたというのも理由の一つのようです。
 
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