コメント
音戸の瀬戸での「清盛の日招き」と同じですね。
(
Unknown
)
2017-03-03 21:37:00
惟栄に関する言い伝えが数多く残っているそうですが、
「日祭田」の話も清盛の日招きと同じだし、後世の人達が地元の英雄の伝説を半ば創作して言い伝え、語り伝えたのでしょう。
今もある橋の名前や交差点の名前にまで使われるとは凄いなと思います。
似たような伝説がありますね
(
sakura
)
2017-03-05 09:48:36
清盛は西に沈む太陽を招き返し、その日のうちに
音戸の瀬戸を開削する工事を完成させたという物語、
こちらも沈む太陽をのばして田植えを終わらせたという
どちらもスケールの大きな伝説ですね。
地元ではいろいろなものを姥嶽伝説や惟栄に結びつけて説明する傾向にあるようです。
緒方三郎惟栄
(
揚羽蝶
)
2017-03-07 21:32:40
緒方三郎惟栄は、平家から源氏に寝返ったが、思えば、孤立無援の義経の力になろうとしたことは、単なる日和見主義者では、なかったのでしょう。魅力のある人には、義理堅いところもあったし立派な人であったのでしょう。今も地元の人達に愛されているのもわかる気がします。
Re:緒方惟栄
(
sakura
)
2017-03-08 13:00:55
文治元年(1185)11月、壇ノ浦で平氏と戦い見事な勝利をおさめた義経は、
一転追われる身となり、大物浦から九州を目ざしましたが、
暴風雨のため遭難し行方不明となりました。
義経はこの年の4月に京都に凱旋し、翌月には捕虜となった
平宗盛を伴って鎌倉に向かい腰越に至りました。
しかし鎌倉に入ることを許されず京都へ戻ってきました。
義経は後白河院に可愛がられていましたから、
頼朝追討の宣旨を与えられ軍勢を集めましたが、
義経に味方するものは殆どいませんでしたね。
ところが緒方惟栄は院の命を受け、義経に味方し
九州までの先導役を引き受けることになりました。
義経は宗盛や建礼門院に深い同情を寄せ、自分の手柄と引き換えに
宗盛の命乞いをしたと「源平盛衰記」に記されています。
これが真実かどうかは明らかではありませんが、「平家物語」は
情けある者として義経を褒めたたえ、日本一の英雄にしてしまいました。
Unknown
(
Unknown
)
2021-02-28 02:04:20
緒方惟栄公が別府の山の口にて義経公のご落胤を匿ってたって話もありますよ。
源朝臣って掘られた墓石をかの地でみたことあります。
情報ありがとうございました。
(
sakura
)
2021-02-28 14:58:00
九州にはそんな伝承が残っているのですね。
「義経記」によると、義経は多情な男だったので、
都にいた時には妾が24人もいたといいます。
義経はそのうち最も寵愛していた静御前はじめ、11人を連れて
九州目ざして大物浦から船出したのですが、暴風雨に見舞われ
船が転覆するという不運に見舞われ、義経の船は住吉浦に漂着しました。
案内役豊後の豪族緒方惟栄とも離れ離れになり、
義経は静御前を除いて他の女性たちを置き去りにしています。
別府の伝説からは、そのうちの誰かが生んだ義経の子を
惟栄が匿っていたとも考えられますね。
山の口には
(
Unknown
)
2021-03-02 00:13:03
阿南氏の末裔の方がおられたんですが、明治に入るまで源氏を名乗ってたそうです。
義経公と同じくなかなか放蕩者の多い家系だったと聞きました。
Re:山の口には
(
sakura
)
2021-03-02 14:38:34
平安時代末期の豊後国の南半分は大神氏が勢力を張っていました。
この豊後大神氏の流れを汲む阿南氏は、大分郡阿南庄に勢力を広げ、
その一族には、小原・大都留・武宮・橋爪などがあります。
別府の山ノ口では、阿南氏の末裔が明治に入るまで
源氏を名のっていたのですね。
Re:Re:山の口には
(
Unknown
)
2021-03-02 16:52:25
いえいえ違います。
同じ里に居を構えておられる阿南氏の末裔の方の奥様が源の家から嫁いできた人だったのでお話をその方から聞いた次第です。
明治以降にその源家の家名は変更されたのですが経緯や現在の家名は伏せてほしいという話でした。
もう30年前の話ですが奥様の生家は廃墟でしたが墓は現存していました。
そうだったのですか。
(
sakura
)
2021-03-03 11:05:02
なぜ阿南氏の末裔の方が源氏を名のっていたのか、
不思議に思っていました。
阿南氏の末裔の奥様の旧姓が源であり、その方の生家の墓石に
「源朝臣」と彫られているのを覧になったということですね。
ありがとうございました。
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「日祭田」の話も清盛の日招きと同じだし、後世の人達が地元の英雄の伝説を半ば創作して言い伝え、語り伝えたのでしょう。
今もある橋の名前や交差点の名前にまで使われるとは凄いなと思います。
音戸の瀬戸を開削する工事を完成させたという物語、
こちらも沈む太陽をのばして田植えを終わらせたという
どちらもスケールの大きな伝説ですね。
地元ではいろいろなものを姥嶽伝説や惟栄に結びつけて説明する傾向にあるようです。
一転追われる身となり、大物浦から九州を目ざしましたが、
暴風雨のため遭難し行方不明となりました。
義経はこの年の4月に京都に凱旋し、翌月には捕虜となった
平宗盛を伴って鎌倉に向かい腰越に至りました。
しかし鎌倉に入ることを許されず京都へ戻ってきました。
義経は後白河院に可愛がられていましたから、
頼朝追討の宣旨を与えられ軍勢を集めましたが、
義経に味方するものは殆どいませんでしたね。
ところが緒方惟栄は院の命を受け、義経に味方し
九州までの先導役を引き受けることになりました。
義経は宗盛や建礼門院に深い同情を寄せ、自分の手柄と引き換えに
宗盛の命乞いをしたと「源平盛衰記」に記されています。
これが真実かどうかは明らかではありませんが、「平家物語」は
情けある者として義経を褒めたたえ、日本一の英雄にしてしまいました。
源朝臣って掘られた墓石をかの地でみたことあります。
「義経記」によると、義経は多情な男だったので、
都にいた時には妾が24人もいたといいます。
義経はそのうち最も寵愛していた静御前はじめ、11人を連れて
九州目ざして大物浦から船出したのですが、暴風雨に見舞われ
船が転覆するという不運に見舞われ、義経の船は住吉浦に漂着しました。
案内役豊後の豪族緒方惟栄とも離れ離れになり、
義経は静御前を除いて他の女性たちを置き去りにしています。
別府の伝説からは、そのうちの誰かが生んだ義経の子を
惟栄が匿っていたとも考えられますね。
義経公と同じくなかなか放蕩者の多い家系だったと聞きました。
この豊後大神氏の流れを汲む阿南氏は、大分郡阿南庄に勢力を広げ、
その一族には、小原・大都留・武宮・橋爪などがあります。
別府の山ノ口では、阿南氏の末裔が明治に入るまで
源氏を名のっていたのですね。
同じ里に居を構えておられる阿南氏の末裔の方の奥様が源の家から嫁いできた人だったのでお話をその方から聞いた次第です。
明治以降にその源家の家名は変更されたのですが経緯や現在の家名は伏せてほしいという話でした。
もう30年前の話ですが奥様の生家は廃墟でしたが墓は現存していました。
不思議に思っていました。
阿南氏の末裔の奥様の旧姓が源であり、その方の生家の墓石に
「源朝臣」と彫られているのを覧になったということですね。
ありがとうございました。