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湯浅氏自体は衰退しても…その血を引く住民は (yukariko)
2015-03-06 22:30:23
産土神として勧請され、以後城主は滅んでもその土地の住民に広く尊崇されている宗教勢力(当然神仏混淆でしょうから)は上手に使う方が勝ちですね。
江戸初期にこの紀州を所領とされ駿府から国替えをした初代藩主徳川頼宣とその家臣群にとっても反抗しない勢力には上手に飴を舐めさせて治めて行ったのでしょうね。
沿岸のみの漁業ではなく遠く房総半島までも進出する進取の気概に富んだ湯浅衆は藩の振興策で醸造業なども発展させ、全国に「湯浅」一族のいさおしを現代までも受けつぎ、広めているのでしょうか?
 
 
 
施無畏寺の再建 (sakura)
2015-03-07 11:13:24
徳川頼宣は明恵上人(湯浅宗重の孫)の施無畏(せむい)寺も再建しています。
湯浅では明恵上人は特別な存在のようで、城跡を案内して下さった
ボランティアの方は何度も施無畏寺と明恵の名を口にされていました。
この寺は明恵の従兄弟の湯浅景基が創建し明恵に寄進したもので、
室町初期には壮大な伽藍を誇っていましたが、その後、兵火で伽藍を失い衰微していました。

頼宣は駿府城から和歌山城へ移された時、かなり不満を持ちながらも、
仕方なく命令に従ったようですが、和歌山城の修築、城下町の整備、
紀ノ川の堤防の改修など、紀州藩繁栄の基礎を築いています。

江戸時代には、「醤油の醸造、遠隔漁業などで財をなした豪商が湯浅には軒を連ね、
さらに湯浅の海辺を埋立てて新地を開いた」と『続風土記』にあります。
栖原角兵衛は房総半島だけでなく遠く樺太・千島にまで進出し、
北方の開拓にも活躍しています。現在、角兵衛屋敷は国登録文化財に指定されています。
またその近くには、幕末の志士菊池海荘邸跡もあります。
 
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