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江戸時代は三十石舟で天満から伏見まで? (yukariko)
2007-11-19 10:36:29
江戸の終わり頃の小説で京と大坂を行き来するのに三十石舟で天満から伏見(寺田屋前の浜)までという話が載っているので、後は徒歩か馬ぐらいで京に入ったと勝手に思っていました。
でも芭蕉の遺骸を膳所の「義仲寺」に運んだのなら草津湊もずっと機能していたのですね。
また一つ勉強できました。ありがとうございます。
 
 
 
三十石船は伏見船場ですね! (sakura)
2007-11-19 17:52:57
宇治川の支流に設けられた伏見の船着場、
この船着場に面して立ち並ぶ旅籠屋の一つが
「寺田屋」ですね。

伏見城の築城に伴って水上、陸上交通の要地に
なったようで、江戸時代になると
こちらの船着場のほうが賑わったようです。

「30石船」は八軒屋
(京橋、蓬莱橋、今橋、天満)伏見船着場から
発着していました。

伏見船場も明治以降陸運の発達によって
衰微し川幅も埋め立てにより狭くなりました。

草津湊も明治十年の鉄道開通により
湊はさびれましたが、
明治末まで鳥羽でとれる水菜や慈姑を
天満の青物市場まで
積み出していたそうです。

タイトルは草津湊・淀川にした方がいいですね。
ご指摘ありがとうございました。


 
 
 
草津湊 (H.o)
2017-07-10 23:04:26
羽束師橋(草津湊跡)・魚魂碑のある場所(写真)は下鳥羽ではなく「横大路草津町」にあります。
 
 
 
ご指摘ありがとうございました (sakura)
2017-07-11 10:24:05
H.o様
それぞれの写真にその所在地を書き入れると分かりやすいですね。

早速、写真の下に記入しておきました。ありがとうございました。
 
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