コメント
 
 
 
唯々義仲哀れとしか言いようがありません。 (yukariko)
2013-04-24 16:35:38
読めば読むほど、袋小路に追い詰められてゆく義仲とその身内、郎党の可哀想さが痛いほどで…。

その窮状を打開する方策も見つからずに、法皇と近親さえいう事を聞かせば事態はよくなると思ったのでしょうね。
それが平家どころか同じ源氏の敵対勢力側にとっても、朝敵を討つという一番強い錦の御旗を与えることになると思わず…。
 
 
 
欠点だらけの義仲ですが (sakura)
2013-04-25 16:17:16
決して悪人ではないし、頼朝のようにずるくもないし、何となく哀れになります。
まだ謀反人に過ぎなかった頼朝は鎌倉にいて、義仲が以仁王の遺児北陸宮を擁して、
大軍を率いて都入りするのをどのような思いで見つめていたのでしょう。

都入りは先をこされてしまいましたが、これで頼朝は義仲追討の大義名分ができましたね。

 
 
 
Unknown (ppp)
2021-01-05 16:50:40
義仲は武骨で宮廷政治に対応できなかったが、悪辣であるとか陰険であるとかは感じられない。
むしろ頼朝の方がよほど・・
 
 
 
ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2021-01-06 15:39:43
pppさま
義仲は2歳から30歳まで木曽に住んでいたので、京の宮廷世界のしきたりなど
知っているわけありませんね。
田舎育ちのために、その振る舞いは武骨で、言葉も田舎弁まる出し。

頼朝が伊豆で挙兵し、富士川合戦で平家軍に大勝すると、
義仲は養父中原兼遠に諮って旗揚げし、たちまち信濃一円を従えました。
そこに大軍をさしむけたのが同族の頼朝です。
その直前に平家軍と戦って惨敗した源行家が木曽に落ち延びていました。
行家は頼朝と仲違いしていましたから、疑い深い頼朝は
2人が一緒になって自分に謀叛を企てると考えたようです。

義仲は二心なき証に嫡男義高を人質としてさしだしたのですね。
よくご存じだと思います。

 
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