コメント
 
 
 
風呂の井戸、風呂の地蔵 (揚羽蝶)
2016-12-04 17:20:36
 風呂の井戸、風呂の地蔵などの平家史跡があり、
大正時代「不老」に変わり、永く親しまれてきたのですね。
ふと気がつくと、ここはもう壇ノ浦に近いところでした。
 
 
 
そうでした! (sakura)
2016-12-05 09:44:23
山鹿城へも惟栄の手が回り、一門が数多くの小舟に分乗し
響灘を東へと漕いで渡ったのが柳ヶ浦、壇ノ浦の近くです。
一門の山鹿城滞在期間は、
「カクテ暫く慰ム心地シテ有リケル程ニ、又緒方三郎十万、云々」と、
「源平盛衰記・巻33」の「下欄の注」に記され、短い滞在であったことがうかがえます。

陸に上がりこの泉で喉を潤し、体を洗い流しほっと一息ついたのですね。

先人たちが継承してきた史跡や話をいつまでも語り伝えてほしいと思います。

 
 
 
慌ただしく各地を舟で移動してゆっくり落ち着く事も少なかった人達にとって (yukariko)
2016-12-06 23:23:14
陸地に上がり、風呂を沸かして皆が入る事も少なかったでしょうから、少しの間としても少しは気持ちが落ち着いたかもしれません。
御所を構え、落ち着けるかと思ったのに、時代は流れてゆくのですね。
地名の言い伝えはその人たちの生き様を哀れと思った人たちが代々伝えてきたのでしょう。
 
 
 
伝承 (sakura)
2016-12-07 09:56:25
山鹿城を追われた平家一門が柳ヶ浦に上陸したと「平家物語」に書かれている
「柳ヶ浦」は「源平盛衰記」には、山鹿城から豊前国
柳ヶ浦に行った時のこととしています。

「柳ヶ浦」という地名は大分県にもありますが、
一門が上陸したときの伝承や史跡がありません。

門司の今の大里には、一門が内裏を建てたという柳の御所跡や
風呂の井戸などの伝承地が残っています。
このことからも、山鹿城から移ったのは、門司の柳ヶ浦であろうと
ほとんどの研究者が推定されています。
風呂は民家のお風呂でも借りたのかな。と勝手に推測しています。

まだ本格的でないでしょうにありがとうございました。

 
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