コメント
何も知らずに九州各地に落人の里があるのはどうしてかと思っていたのです。
(
yukariko
)
2017-03-25 21:49:59
原田種直を頼ってきた平重盛内室と息女の塚もあるのですね。
平氏も元々西国から勢力を伸ばして都に上った訳で、息のかかった家人たちは追捕を逃れて勝手の分かる地元に近い場所に隠れ住んだでしょうし、鎌倉幕府から許されて九州の故郷に帰り、その地で一族を増やし御家人として繁栄していった人達もいたのですね。
平家の残党
(
sakura
)
2017-03-26 17:21:46
壇ノ浦合戦後、頼朝の残党に対する詮索は厳しかったのですが、
生き残った平家有力家人もいます。
福岡県の西部、糸島半島のつけ根に位置する前原市には、
白村江の戦いに敗れた後、新羅の来襲に備えて築かれたという
古代の山城である怡土(いと)城がありました。
故郷に帰った原田種直が鎌倉期にその一部を修築し、
本城にしたと伝えられ、城跡全体が国の史跡に指定されています。
平家の落人伝説や平家谷は全国各地にありますが、
特に九州、四国、中国地方に多く見られます。
熊本県の五家荘は辺境の地にありますが、現在観光地化していてよく知られています。
五家荘のうち、椎原と久連子(くれこ)地区は緒方領と呼ばれています。
以前にも少しご紹介しましたが、『肥後国誌』によると、
重盛の息子、清経は柳浦で入水したと見せかけ、
豊後国に逃れ緒方実国に匿われ、実国の娘との間に清国が生まれました。
その孫が五家荘に移り住み、これが平家谷の起源としています。
ここには、平家の落人達が都を偲んで舞ったと言い伝えられる久連子踊りがあります。
熊本に住んでいた時、県立劇場でこの踊りを何度か見ました。
久連子産の「久連子鶏(くれこどり)」の黒く長い羽をつけた
花笠をかぶり、優雅で勇壮的に踊ります。
龍国寺
(
揚羽蝶
)
2017-03-26 18:36:39
龍国寺は、由緒ある立派なお寺ですね。龍の彫り物も細部までよくできていると思います。
重盛公や原田種直公にゆかりのあるお寺が、九州のこんなところ(失礼)にあるなんて、実に広大な領地を、持っていたのですね。
お察しの通りです
(
sakura
)
2017-03-27 11:28:59
立派で品のよいお寺です。
ちょうど法事が行われていたので遠慮させていただきましたが、
境内の後方には、手入れの行き届いた素敵な庭園もあるようです。
鎌倉期には、筑前守護武藤資頼(すけより)が原田種直の広大な領地に入り、
降伏し後に赦免された種直の領地は、現在の糸島半島の一部と福岡市の一部だけとなり、
原田氏は武藤氏の管理下に雌伏し、時がくるのを待っていました。
南北朝内乱期になると、原田氏は失地回復を図り、
姓を少弐氏と改めた武藤氏に敵対し一族が台頭してきます。
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平氏も元々西国から勢力を伸ばして都に上った訳で、息のかかった家人たちは追捕を逃れて勝手の分かる地元に近い場所に隠れ住んだでしょうし、鎌倉幕府から許されて九州の故郷に帰り、その地で一族を増やし御家人として繁栄していった人達もいたのですね。
生き残った平家有力家人もいます。
福岡県の西部、糸島半島のつけ根に位置する前原市には、
白村江の戦いに敗れた後、新羅の来襲に備えて築かれたという
古代の山城である怡土(いと)城がありました。
故郷に帰った原田種直が鎌倉期にその一部を修築し、
本城にしたと伝えられ、城跡全体が国の史跡に指定されています。
平家の落人伝説や平家谷は全国各地にありますが、
特に九州、四国、中国地方に多く見られます。
熊本県の五家荘は辺境の地にありますが、現在観光地化していてよく知られています。
五家荘のうち、椎原と久連子(くれこ)地区は緒方領と呼ばれています。
以前にも少しご紹介しましたが、『肥後国誌』によると、
重盛の息子、清経は柳浦で入水したと見せかけ、
豊後国に逃れ緒方実国に匿われ、実国の娘との間に清国が生まれました。
その孫が五家荘に移り住み、これが平家谷の起源としています。
ここには、平家の落人達が都を偲んで舞ったと言い伝えられる久連子踊りがあります。
熊本に住んでいた時、県立劇場でこの踊りを何度か見ました。
久連子産の「久連子鶏(くれこどり)」の黒く長い羽をつけた
花笠をかぶり、優雅で勇壮的に踊ります。
重盛公や原田種直公にゆかりのあるお寺が、九州のこんなところ(失礼)にあるなんて、実に広大な領地を、持っていたのですね。
ちょうど法事が行われていたので遠慮させていただきましたが、
境内の後方には、手入れの行き届いた素敵な庭園もあるようです。
鎌倉期には、筑前守護武藤資頼(すけより)が原田種直の広大な領地に入り、
降伏し後に赦免された種直の領地は、現在の糸島半島の一部と福岡市の一部だけとなり、
原田氏は武藤氏の管理下に雌伏し、時がくるのを待っていました。
南北朝内乱期になると、原田氏は失地回復を図り、
姓を少弐氏と改めた武藤氏に敵対し一族が台頭してきます。