コメント
清盛は遷都という遠大な長期計画はなかった。
(
yukariko
)
2015-06-17 12:36:21
清盛、頼盛他平氏の古強者が遷都が本当に必要だと初期から考えていたのなら、もっと早くから場所を探し、色々な準備をしていたと思うのです。
貴族として育った若公達は都や宮廷での平家の栄耀栄華に得意満面、有頂天で将来もずっとそのままと思っていた…。平氏でさえ都は京都しかないと思っていたはず。
それがいつの間にか風向きが変わり始めて、気付いたら四面楚歌の一歩手前、こうなるとおべっかを言う貴族は皆信用できない、敵(院)とその手先に見えたのでしょうね。
頼みに思うべき一門は頼りなく、玉(高倉・安徳)を人質に遠く離れた福原へ都落ちを考えるほどに。
大がかりな日宋貿易用に大輪田泊を整備し、一族用別荘などの諸施設は作っていても、遷都の仮都には元々無理でしょう。
現代でさえ神戸は狭い、四神相応の地でもなく、港以外の整備には何年もかかる、そんな準備も出来ていない田舎に強権を持って連行しても貴族が同意するはずもなし、関係ない庶民にまで反感を買い、怨嗟の声を浴びるだけですよね。
それでもやるほど清盛の気持は追いつめられていた…
平家物語のテーマ「栄枯盛衰」これから急展開ですね。
今の風景から800年前を
(
自閑
)
2015-06-18 08:07:59
福原遷都は、方丈記の関係から、一方、城方、盛衰記他の平家から、当時の貴族の日記までとと読みまくりましたが、どこにあったのか?土地勘が無い為に、考えたこともなかったので、興味深く読ませて頂ききました。
お写真からは、当時の様子は思い浮かべるのは、難しいですね。
ここは、もうひとつの一ノ谷の近所ですよね。又拝見させて頂きます。
まさに四面楚歌!
(
sakura
)
2015-06-18 15:50:43
何もかも急すぎましたね。
建春門院が清盛と後白河を結び、彼女が生きている間は、
両者は何とか協調してやれましたが、彼女が亡くなるとその関係は終わりをつげます。
その後、清盛の横暴を諌め、父と後白河の仲裁役であった重盛までが亡くなり、
清盛の独裁と強硬路線に拍車がかかります。
平氏の権勢に反発する後白河や既成の権威を清盛は切りたかったようで、
以仁王の乱がその時期を早めました。準備不足です。
結局、清盛は貴族・寺社・武士などから反発を受け、
源氏による平氏打倒の挙兵が各地で起こる中、
熱病で亡くなってしまいましたね。
そうです!
(
sakura
)
2015-06-18 17:27:28
祇園神社は義経別動隊の多田行綱が押しよせた
能登守教経が守る山の手陣(氷室神社)に、ほど近い所にあります。
見晴らしのいい境内からは、肉眼で市街地から港のあたりまで一望できます。
清盛がこの景色を眺めながら、経ヶ島築造の構想を練ったという伝承もうなずけます。
JR神戸から山手に10分ほど歩くと「福原」という地名がありますが、
これは福原京とは違い、明治時代につけられた名です。
地図をUPさせていただきました。
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貴族として育った若公達は都や宮廷での平家の栄耀栄華に得意満面、有頂天で将来もずっとそのままと思っていた…。平氏でさえ都は京都しかないと思っていたはず。
それがいつの間にか風向きが変わり始めて、気付いたら四面楚歌の一歩手前、こうなるとおべっかを言う貴族は皆信用できない、敵(院)とその手先に見えたのでしょうね。
頼みに思うべき一門は頼りなく、玉(高倉・安徳)を人質に遠く離れた福原へ都落ちを考えるほどに。
大がかりな日宋貿易用に大輪田泊を整備し、一族用別荘などの諸施設は作っていても、遷都の仮都には元々無理でしょう。
現代でさえ神戸は狭い、四神相応の地でもなく、港以外の整備には何年もかかる、そんな準備も出来ていない田舎に強権を持って連行しても貴族が同意するはずもなし、関係ない庶民にまで反感を買い、怨嗟の声を浴びるだけですよね。
それでもやるほど清盛の気持は追いつめられていた…
平家物語のテーマ「栄枯盛衰」これから急展開ですね。
お写真からは、当時の様子は思い浮かべるのは、難しいですね。
ここは、もうひとつの一ノ谷の近所ですよね。又拝見させて頂きます。
建春門院が清盛と後白河を結び、彼女が生きている間は、
両者は何とか協調してやれましたが、彼女が亡くなるとその関係は終わりをつげます。
その後、清盛の横暴を諌め、父と後白河の仲裁役であった重盛までが亡くなり、
清盛の独裁と強硬路線に拍車がかかります。
平氏の権勢に反発する後白河や既成の権威を清盛は切りたかったようで、
以仁王の乱がその時期を早めました。準備不足です。
結局、清盛は貴族・寺社・武士などから反発を受け、
源氏による平氏打倒の挙兵が各地で起こる中、
熱病で亡くなってしまいましたね。
能登守教経が守る山の手陣(氷室神社)に、ほど近い所にあります。
見晴らしのいい境内からは、肉眼で市街地から港のあたりまで一望できます。
清盛がこの景色を眺めながら、経ヶ島築造の構想を練ったという伝承もうなずけます。
JR神戸から山手に10分ほど歩くと「福原」という地名がありますが、
これは福原京とは違い、明治時代につけられた名です。
地図をUPさせていただきました。